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日本イデオロギー論

  ――現代日本に於ける日本主義・
      ファシズム・自由主義・思想の批判










 



 

 この書物で私は、現代日本の日本主義と自由主義とを、様々の視角から、併し終局に於て唯物論の観点から、検討しようと企てた。この論述に『日本イデオロギー論』という名をつけたのは、マルクスが、みずからを真理と主張し又は社会の困難を解決すると自称するドイツに於ける諸思想を批判するに際して、之を『ドイツ・イデオロギー』と呼んだのに傚ったのだが、それだけ云えば私がこの書物に就いて云いたいと思うことは一遍に判ると思う。無論私は自分の力の足りない点を充分に知っていると考えるので、敢えてマルクスの書名を僭する心算ではないのである。

 

  (「現代日本の思想上の諸問題」と「自由主義哲学と唯物論」の二つは新しく書いたものである。他の論文は『唯物論研究』『歴史科学』『社会評論』『進歩』『読書』『知識』や、『改造』『経済往来』『行動』『文芸』に、一旦載せたものであるが併し之を整理して一貫した秩序を与えたのである。)


 なお私がひそかに想定している思考上の伏線に就いて、注意を払う読者があるならば、左記の書物を参照して貰えば幸いである。特に第二以下のものが直接の役に立つだろうと思う。

 一、科学方法論      (一九二九)  (岩波書店)
 二、イデオロギーの論理学 (一九三〇)  (鉄塔書院)
 三、イデオロギー概論   (一九三二)(理想社出版部)
 四、技術の哲学      (一九三三)   (時潮社)
 五、現代哲学講話     (一九三四)   (白揚社)
  (『現代のための哲学』――大畑書店――の改訂版)
                        以 上
  
一九三五・六・三〇
                東 京
                   
戸 坂  潤





 
増補版序文



 再版に際して補足として三つの文章を加えることにした。時局の進展に応じてこれが必要だと思ったからである。――なお参考として、初版序文に挙げた他に、『思想としての文学』(一九三六・三笠書房)と『科学論』(一九三五・唯物論全書・三笠書房)の二つの拙著をつけ加えておく。
  
一九三六・五
                      
著 者





 
増補版重版序文



 増補版も版を重ねること数回に及んだ。今、特に云うべき言葉は持たないが、ただ増補版序文の後、本書と連関のある私の著書が四つ程出版されていることを、読者に報告しておきたいと思う。
 巻末の著書表〔そこには『道徳論』(一九三六・唯物論全書・三笠書房)、『思想と風俗』(一九三六・三笠書房)、『現代日本の思想対立』(一九三六・白揚社)、の四つの著書が追加されている〕を参照されたい。
  
一九三七・一
                     
著 者







序 論





 
 現代日本の思想上の諸問題
      
――日本主義・自由主義・唯物論



 現代の日本に於いては、凡んどありとあらゆる思想が行なわれている。日本・東洋・欧米の、而も過去から現在にかけてのあれこれの人物に基く思想を取り上げるならば際限がない。曰く二宮尊徳・山鹿素行、曰く孔子、曰くニーチェ・ドストエフスキー、曰くハイデッガー、曰くヤスペルス、曰く何々。こう並べて見ると、こういう所謂「思想」なるものが如何に無意味に並べられ得るかに驚かされるだろう。だがこの種のあれこれの思想はどれも、実は高々一個の「見解」といったものにしか過ぎないのであって、まだそれだけでは社会に於ける一貫した流れとして根を張った「思想」ではない。――思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たわるようなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想というものが成り立つのである。
 そうした意味に於ける思想として、現代日本に於てまず第一に挙げられるべきものは、自由主義なのである。世間の或る者は自由主義が昨今転落したと云っている。だが、そういうならば一体最近に転落し得るようなどういう自由主義が旺盛を極めていたか、と反問しなければならなくなるだろう。少くとも最近、自由主義は世間の意識に少しも積極的に上ってはいなかった。大戦以後、自由主義思想が勢力を有ったと見られ得たのは、僅かに吉野作造氏等によるデモクラシー運動位のものだったが、それもマルクス主義の駸々たる台頭の前には、完全に後退して了ったと見ねばならぬ。それ以後意識的に自由主義思想が高揚したのを吾々は見ないのである。だがそれにも拘らず、自由主義は明治以来の社会常識の基調をなして来ているという他面の事実を忘れてはならない。
 云うまでもなく日本に於ける民主主義は決して完全なブルジョア・デモクラシーの形態と実質とを備えたものではなかった。封建性に由来する官僚的・軍閥的・勢力との混淆・妥協によって、著しく歪められた民主主義でしか夫はなかった。併しそれが夫なりに、矢張り一個の民主主義を基調としたればこそ民主主義の歪曲でもあり得た、という点が今大切である。日本に於ける自由主義の意識は、甚だ不徹底な形に於てであるにも拘らず、吾々の社会常識の基調をなして今日に及んでいる。ただそれが余りに常識化したものであったため、それから又、決して常識以上に抜け出なかったために、特別に「自由主義」として意識的に自覚され強調されるような場合が、極めて例外な偶然的な場合と見られるのに他ならない。日本主義が台頭するに当って、さし当り第一の目の敵としなければならなかったのは、だから、この普及した社会常識としての自由主義思想だったのであって、之は別に、それまで自由主義の思想が特に意識的に旺盛を極めていたからではない。で、自由主義は無意識的にしろ近代日本の思想のかくされた基調をなしている。
 自由主義思想は、自由主義の意識は、その本来の淵源を所謂経済的自由主義の内に持つにも拘らず、思想としての直接の源泉は之を政治的デモクラシーの内に持っている。だが自由主義思想は決してデモクラシーという観念内容に終始するものではない。それはもっと広範な観念内容を含んでいるが、そこから、自由主義思想には、ありと凡ゆる内容が取り入れられることが出来る、ということになって来るのである。
 一体自由主義が本当に独立した一個の思想として成り立つかどうかが抑々の疑問なのである。と云うのは、一定の発展展開のメカニズムを有ち、自分と自分に対立するものとの(けん)別を通して自らを首尾一貫する処の、生きた論理組織を、自由主義が独自に持てるかどうかが、抑々の疑問なのである。だが仮にそうした自由主義の哲学体系が成り立ったとして、そうした「自由主義」哲学は必ずしも自由主義思想全般の忠実な組織であるとは限らないのである。なぜかと云うに、自由主義的思想にはありと凡ゆる観念内容が這入り得るのだったから、仮にその観念内容を理論的な哲学体系にまで組織したとして、果してその体系が、依然として「自由主義」という名目に値いするかどうかが、保証の限りではないからである。つまりそれ程、自由主義思想の観念内容は雑多で自由なのである。
 自由主義思想にぞくする内容の一つには、社会的政治的観念からの自由、とも云うべきものが含まれている。そこでは専ら文化的自由だけが問題となる。之は今日多くの自由主義者の自由観念の内に見出される処であるが、その一つの場合として、その文化的自由の観念が宗教的意識にまで高揚し、又は深化されるのを見なくてはならぬ。キリスト教的(主にプロテスタント的)神学や仏教的哲学を通って、自由主義者の哲学は宗教意識へと移行するのを、読者は至る処に見るだろう。今日教養あるインテリゲンチャが宗教観念に到達する道は、多くはここにあるのであって、この種の宗教意識は、この段階に止まる限り(この段階からもっと進めば別になるが)、自由主義意識の一つの特別な産物なのである。
 この宗教的自由は云うまでもなく政治的自由からの自由を意味する。現実からの逃避を意味している。処がここに実に、宗教の第一義的な真理が、即ち又その第一の用途が、横たわることは人の知る処だ。社会に於ける現実的な矛盾がもはや自由主義思想のメカニズムでは解決出来なくなった現在のような場合、その血路の一つが(但し唯一の血路ではないが)ここにあるのであって、矛盾の現実的な解決の代りに、矛盾の観念的な解決が、或いは矛盾の観念的な無視・解消が、その血路である。現代は、従来国家的又社会的に認定された「既成宗教」や、比較的無教育な大衆の上に寄生する所謂邪宗の他に、インテリゲンチャを目あてとする多少とも哲理的な新興宗教の企業時代だが、一般に自由主義に基くインテリゲンチャの動揺がなければ、こうした企業の目算は決して成り立たない筈であった。
 処で、この云わば宗教的な自由主義は、一変して、云わば宗教的な絶対主義〕に転化するのである。自由主義は宗教意識を仲立ちとすることによって、容易に一種の〔絶対主義〕に、而も一種の政治的〔絶対主義〕に、移行することが出来るのである。宗教は今や政治的〔絶対主義に協力〕し始める。例えば仏教は日本精神の一つの現われだと解釈され始める。カトリック主義さえが法皇の宗教的権威と日本の〔絶対君主とを調和〕させよと主張し始める。日本の〔絶対君主〕が一種の宗教的〔対象〕を意味することなど、もはや少しも問題ではないかのように。――で自由主義の埒外へ一歩でも踏み出した宗教意識は、やがて日本主義の埒内に収容されるのだ、ということを注目すべきである。
 宗教復興によって宗教的世界観が、宗教的思想が、最近の日本を支配し始めたように云われている。之が本当の「宗教」的真理運動を意味することが出来るかどうかは別として、とに角そういう特別な宗教思想が今日の著しい現象だということには疑いはあるまい。だが、これは必ずしも、宗教的思想が独自な思想分野を構成するものだということを意味しない。宗教意識は自由主義思想に基くものでなければ、日本主義思想に帰着するものであったからだ。――思想は社会人の政治的活動と一定連関を持つことによって初めて思想の資格を得る。もし単なる宗教としての宗教というものがあるとしたなら、それは何等の思想でもなく、全くの私事に過ぎないだろう。だが無論実際には、単なる宗教としての宗教などというものは決して存在していない。

 自由主義思想が一つの独自な論理を有つことによって哲学体系にまで組織される時、夫は広く自由主義哲学と呼ばれてよいものになるのであるが(尤もその多くのものはそういう命名法に満足しないことは判っている)、この哲学体系の根本的な特色は、その方法が多少に拘らず精練された「解釈の哲学」だということにある。事物の現実的な秩序に就いて解明する代りに、それに対応する意味の秩序に就いてだけ語るのが、この哲学法の共通な得意な手口なのである。例えば現実の世界では、宇宙は物理的時間の秩序に従って現在の瞬間にまで至っている。よく云われることであるが、意識の所有者である人間や(他の生物さえ)がまだ存在しなかった時にも、すでに地球が存在した、ということを地質学と天文学とが証明している。処が自由主義的論理に立つ解釈の哲学は、宇宙のこうした現実の秩序(物理的時間)を問題とはしない、その代りに人間と自然との関係を、人間の心理的時間の秩序に於て問題にしたり、或いは超人間的な又は超宇宙的な従って又超時間的な秩序(そういう秩序は意味の世界に於てしかあり得ない)に於て問題にしたりしかしない。現実の世界に就いて語るように見せかけて、実際に聞かされるのは、意味の(だから全く観念界にぞくする)世界に就いてでしかない。そういうことが世界の単なる解釈ということなのである。
 観念論が最も近代的に自由主義的形態を取ったものが、この精巧に仕上げられた解釈哲学に他ならない。露骨な観念論という髑髏(どくろ)は、この自由主義という偽装によって、温和なリベラルな肉付きを受けとる。だがそれだけ自由主義が観念論の近代文化化された被服であるということが、証拠立てられることになる。
 この解釈哲学という哲学のメカニズムは非常に広範な(寧ろ哲学的観念論全般に渡る)適用の範囲を有っている。従ってこれが必ずしも自由主義哲学だけの母胎でないことは後に見る通りだが、併しここから出て来る最も自由主義哲学らしい結論の一つは、文学的自由主義乃至文学主義という論理なのである。之は解釈哲学という方法の特殊な場合であって、この解釈方法を、文化的に尤もらしく又進歩的に円滑にさえ見せるために工夫し出されたメカニズムに他ならない。現実に就いてのファンタスティックな表象である処の文学的な表象乃至イメージを利用して、この文学的表象乃至イメージをそのまま哲学的論理的概念にまで仕立てたものが之である。こうすれば現実の秩序に基く現実的な範疇組織(=論理)の代りに、イメージとイメージとをつなぐに適した解釈用の範疇組織(=論理)を結果するのに、何よりも都合がいいからである。
 処で実際問題として、この文学主義は、多く文学的自由主義者である処の日本現在のインテリゲンチャの社会意識にとって、何より気に入ったアットホームなロジックなのである。だから現在インテリゲンチャが自らインテリゲンチャを論じるに際して知らず知らずに採用する立場はこの文学的自由主義乃至文学主義であらざるを得ない。事実インテリゲンチャ論は現在に於ては何よりもまず広義の文学者達の一身上の問題として提起されているのであって、そこからこの種のインテリゲンチャ論がインテリ至上主義に帰しはしないかと疑われる点も出て来るのであるが、それはとに角、少くとも之が文学主義という一種の自由主義哲学に立脚していることはこの際特徴的だと考えられる。――だがインテリゲンチャの問題は元来インテリジェンスの問題に集中する。処でインテリジェンスの問題を解くにはもはや自由主義哲学では役立たない。というのは、一体インテリジェンスの問題に就いて、自由主義的に科学的解決を与えるということは、何か意味のある言葉だろうか。――ここでも気づくことだが、自由主義哲学を、科学的理論体系として徹底することは、すでに何かの錯誤を意味しているのだ。
 自由主義哲学の最もプロパーな場合は、自由そのものの観念的な解釈に立脚する理論体系である。ここでは経済的・政治的・倫理的・自由が、それ自身だけとして問題になることによって、自由そのものとなり、従って又自由一般となり、従って哲学は自由の一般的な理論となる。ここから結果するものは自由一般に関する形式主義的理論でしかない。――形式主義は解釈哲学の必然的な結果の一つであるが、元来形式主義と解釈哲学とは、形而上学=観念論的論理の、二つの著しい特色だと認められている。

 さて処で、自由主義が宗教的意識を産み出すことによって、やがて〔絶対主義〕としての日本主義に通じて行くことを前に見たが、今度は恰もこの現象に平行して、自由主義に於ける解釈哲学という方法が、日本主義を産み出す所以を見よう。之を見るならば、日本主義の哲学が実は或る意味に於て自由主義哲学の所産であり、少くとも日本主義哲学への余地を与えたものが自由主義哲学の寛大な方法だった、ということに気がつくだろう。
 先に自由主義哲学の方法上の特徴であった例の解釈哲学が、自由主義に特有な文学主義を産む所以を見たが、之に平行して、今度はこの解釈哲学は文献学主義を産むのである。文学主義が現実に基く哲学的範疇の代りに文学的イメージに基く文学的範疇を採用するという解釈方法だったとすれば、文献学主義は、現実の事物の代りに文書乃至文献の語源学的乃至文義的解釈だけに立脚する。その最も極端な場合は、国語の内からあれこれの言葉を勝手に取り出して来て、之を哲学的な概念にまで仕立てることである。文学主義は表象を概念にまで仕立てたが、文献学主義は言葉を概念にまで仕立てる。処でそれだけならば誰しもこうした「哲学方法」(?)の極度に浅薄なことに気付かぬ者はないのだが、併しこのやり方を古典的な文献に適用すると、その時代の現実に就いて人々が充分歴史科学的な知識を有っていない限り、相当の信用を博することも出来なくはない。そこでこうした古典の文献学主義的「解釈」(或いは寧ろコジツケ)を手頼って、歴史の文献学主義的な「解釈」を惹き出すことも出来る。今日の日本主義者達による「国史の認識」は殆んど凡てこの種類の方法に基いているのである。
 そしてもっと大事な点は、こうした古典の文献学主義的解釈を以て、現在の現実問題の実際的解決に代えようとする意図なのである。仏典を講釈して現下の労働問題を解決し得ようといった類の企てが夫なのである。古典が成立した時代に於てしか通用しない範疇を持って来て、夫を現代に適用すれば、現在の実際的な現実界の持っている現実はどこかへ行って了って、その代りに古典的に解釈された意味の世界が展開する。現実の秩序の代りに、意味の秩序を持ち出すのに、恐らくこの位い尤もらしく見えるトリックはないだろう。
 文献学主義は尤も、必ずしもすぐ様日本主義へ行かなければならぬという必然性は有たない。元来日本主義というものが何かが決して一般的に判っているのではないが、少くとも文献学主義から、ギリシア主義やヘブライ主義へ行くことも出来れば、古代支那主義(儒教主義)や古代印度主義(仏教主義)へ行くことも出来る。アカデミーの哲学者やキリスト教神学者、王道主義者や仏教神学者達は、夫々この文献学主義のメカニズムを利用して、現代の事物に就いて口を利いているのである。古典の研究は古典の研究であって、現代の実際問題の解決ではない。処がこの古典研究を利用して、現在の実際問題を解き得るように見せかける手品が、文献学主義だというのである。――之は現代の資本主義内部から必然的に発生する処の各種の反動主義の国際的原則をなしているのである。
 以上からすぐ様想像出来るように、文献学主義は容易に復古主義へ行くことが出来る。復古主義とは、現実の歴史が前方に向って展開して行くのに、之を観念的に逆転し得たものとして解釈する方法の特殊なもので、古代的範疇を用いることによって、現代社会の現実の姿を歪曲して解釈して見せる手段のことだ。そして忘れてならぬ点は、夫が結果に於て社会の進展の忠実な反映になると自ら称するのが常だということである。
 さて文献学主義が愈々日本主義の完全な用具となるのは、之が国史に適用される時なのである。元来漫然と日本主義と呼ばれるものには、無数の種類が含まれている。一般的にムッソリーニ的ファシズムやナチス的ファシズム、社会ファシズムと呼ばれるべきものさえ、今日では日本主義と或る共通の利害に立っていると考えられる。又単に一般的な復古主義や精神主義や神秘主義や、又ただの反動主義に過ぎないものも、日本主義的色彩によって色どられている。アジア主義や王道主義も実は一種の日本主義なのである。だがプロパーな意味での日本主義は「国史」の日本主義的「認識」に立脚しているのである。日本精神主義、日本農本主義、更に日本アジア主義(日本はアジアの盟主であるという主義)さえが、「国史的」日本主義の内容である。だから結局、一切の日本主義は淘汰され統一されて、〔絶対主義にまで帰着しなければならず、又現にそうなりつつあるのである。〔天皇〕そのものに就いては、論議の限りではないが、〔絶対主義〕は処で、全く文献学主義なる解釈哲学方法を国史へ適用したものに他ならない。この主義が日本に於ける積極的な観念論の尖鋭の極致である所以だ。之に較べれば自由主義は、消極的な観念論の単なる安定状態を示しているものに他ならぬ。
 と角の議論はあるにしても、日本主義は日本型の一種のファシズムである。そう見ない限り之を国際的な現象の一環として統一的に理解出来ないし、又日本主義に如何に多くヨーロッパのファシズム哲学が利用されているかという特殊な事実を説明出来なくなる。色々のニュアンスを持った全体主義的社会理論(ゲマインシャフト・全体国家・等々)は日本主義者が好んで利用するファシズム哲学のメカニズムなのである。だが日本主義はこうした外来思想のメカニズムによっては決して辻褄の合った合理化を受け取ることは出来ないだろう。唯一の依り処は、国史というものの、それ自身初めから日本主義的である処の「認識」(?)以外にはあるまい(結論を予め仮定にしておくことは最も具合のいい論法だ)。処でそのために必要な哲学方法は、ヨーロッパ的全体主義の範疇論や何かではなくて、正に例の文献学主義以外のものではなかったのである。――併し実は、この文献学主義自身は、もはや決して日本にだけ特有なものではない、寧ろドイツの最近の代表的な哲学が露骨な文献学主義なのだが(M・ハイデッガーの如き)。だから、日本主義に於て日本主義として残るものは、日本主義的国史だけであって、もはや何等の哲学でもない、という結果になるのだ。
 例えば自由主義乃至自由主義哲学によって国史を検討する、というような言葉には殆んど意味がないだろう。日本主義的歴史観に対立するものは、唯物論による、即ち唯物史観による、科学的研究と記述とでしかあり得ない。だからこの点からも判るように、日本主義に本当に対立するものは自由主義ではなくて正に唯物論なのである。その証拠には、日本主義の殆んど唯一の「科学的」(?)方法である文献学主義のために余地を与えたものは、他ならぬ自由主義の解釈哲学だったのである。この意味に於て、自由主義的哲学乃至思想の或るものは、そのままで容易に日本主義哲学に移行することが出来る。日本主義哲学は所謂右翼反動団体的な哲学には限らない、最もリベラルな外貌を具えたモダーン哲学であっても、それがモダーンであり自由主義的であることに基いて、やがて典型的な日本主義哲学となることが出来る。和辻哲郎教授の『人間の学としての倫理学』などがその最もいい例であって、元来「人間の学」乃至人間学なるものは、今日(可なり悪質な)自由主義哲学の代表物であり、例の文学主義の一体系にぞくするものであったが、夫が誠に円滑に、日本主義の代表物にまで転化することが出来るのである。――ここに自由主義的哲学と日本主義的哲学との本質的な類縁関係が横たわる。
 高橋里美教授の全体主義の論理は、それだけとして見れば全く自由主義の哲学体系に数えなければならないが、併し全体という範疇がナチス的社会理論の不可欠な基礎概念となっていることは改めて指摘するまでもないだろう。西田幾多郎博士の「無」の論理も亦、決して一見そう思われるような宗教的神秘的な境地だと云うことは出来ないが、それにも拘らずこれはその客観的な運命から判断すれば、例のインテリ向きの宗教意識に応えんがために存在しているようにさえ見受けられる。そしてこうした宗教意識が、多少とも社会的な積極性を帯びると、忽ち日本主義のものになるという、現実の条件に就いてはすでに述べた。――自由主義はその自由主義らしい論理上の党派的節操の欠乏から、日本主義に赴くことに対して殆んど何等の論理的抵抗力をも用意していないように見える。自由主義者乃至自由主義的哲学者が日本主義に赴かないのは、論理的な根拠からではなくて、殆んど全く情緒的な或いは又性格的な根拠からであるに過ぎない。処が彼等が唯物論に赴けないのは、単に情緒的な或いは又性格的な根拠からだけではなく、又論理的な根拠からでもあるのである。
 普通自由主義は日本主義よりも寧ろまだ唯物論に近い、という政治的判断が下されている。だが自由主義が自由主義哲学の体系に関わり合っている限り、それは原則的には唯物論の反対物であって、寧ろ日本主義への準備に他ならない。にも拘らずなお、自由主義が唯物論の同伴者めいた役割を持つことが出来ると判断されるのは、自由主義が自由主義としての立場を固執することを止めて、却ってその反対な立場にまで自分の立場を徹底させうるだけの自由な立場を採る時に限る。自由主義は日本主義へ移行するには理論的に自由主義の立場を固執していても不可能ではない、だが自由主義が唯物論に移行するためには、自由主義は真に自由主義として、否、もはや自由主義ではないものにまで、自らを徹底しなければならない。この意味に於てだから自由主義は、決して普通考えられるように、日本主義と唯物論との公平な中間地帯などではなかったのである。

 さて初めに私は、自由主義が近代日本の隠然たる社会常識だと云った。このことは日本が曲りなりにも高度に発達した資本主義国であることから、当然出て来る結論でもある。今日の自由主義、即ちブルジョア・リベラリズムは、云うまでもなく資本主義に基いたイデオロギーなのだから、これは又資本主義社会の根本常識でもなくてはならない筈だ。従って自由主義が、発達した資本主義の社会的所産を現在の所与として仮定する限り、そうした所与を無視する他の各種の思想に較べれば、少くとも進歩的だと云わねばならぬ。中世的封建制を思想上の地盤にしている各種の復古思想の反動性と比較すれば、何と云ってもそうなのである。或るカトリック学者は自由主義が今日なぜ一応の社会常識であるかを理解し得ないと云うのであるが、この常識の是非はとに角として、自由主義乃至プロテスタンティズムの方が、中世的なカトリチスムスなどに較べて、ブルジョア社会の常識に一致するということは、今更論証を必要としないことだろう。
 処で日本主義(之が今日一個の復古思想であり又反動思想なのだという点に注意を払うことを怠ってはならぬ)は、この自由主義的ブルジョア社会常識に照せば、著しく非常識な特色を有っている。この非常識さが自由主義者を日本主義的右翼反動思想から、情緒的に又趣味の上から、反発させるに充分なのである。処がそれにも拘らず、事実上は、こうした非常識であるべき日本主義思潮が、今日日本のあまり教養のない大衆の或る層を動かしているという現実を、どうすることも出来ない。そうなると之又一つの常識だということにならざるを得ないように見えるのである。社会に於ける大衆やその世論(?)というものがどこにあるか、という問題にも之は直接連関している。――で、常識というものの有っているこうした困難を解決するのでなければ、今日の日本主義に対する批判は充分有力にはなれまい。
 実際日本主義は自分がもっているこの一種の常識性(?)をすでに自覚しているばかりではなく、今では夫を愈々強調しようとする方針に出て来つつあるように見える。日本主義は大衆を啓蒙(!)しなければならぬとさえ叫んでいる。処が一般に大衆を相手にする啓蒙なるものは、今日の上品なリベラーレン達が決して潔しとしない仕事なのである。解釈哲学者や文学主義者達の多くは、専ら意味の形而上学の建設や自己意識(自意識―自己反省)の琢磨に多忙であって、社会や大衆などは一杯の紅茶の値さえもないと考える。これはつまり、如何に自由主義者達が日本主義的啓蒙運動(?)に対して、有力な援助を与えつつあるかということを物語っている。
 自由主義者達の日本主義的啓蒙運動に対するこの援助は、云わば日本主義の前哨戦である文化ファシズムとしての文化統制運動となって、日本主義者の側から感謝の手をさし延べられているのである。今日の多くの自由主義者達が、最近の各種の文化統制運動に対して、殆んど何等の本質的な反発を感じないらしいことは、関係が援助と感謝との間柄だからに他ならない。
 日本主義と自由主義とに対立する第三の思想は、云うまでもなく唯物論である。日本主義と自由主義との各々に就いて、又その相互の関係に就いて、科学的に批判し得るものは、日本主義でもなければ自由主義でもなくて、正に唯物論でなければならぬだろう。今この点に注目するならば、唯物論の思想としての優越性が、おのずから間接に証明されることになる。――ここに思想というのは他でもない、実際問題の実地の解決のために、その論理を首尾一貫して展開出来る処の、包括的で統一的な観念のメカニズムのことである。
 私は以上のような観点から、日本主義と自由主義との若干の批判を企て、或いは少くとも批判の原則を指摘しようと目論みたのである。思うに現在に於ける唯物論の仕事の半ばはここにあるのである。







第一編 日本主義の批判とその原則





 
 「文献学」的哲学の批判
       ――一、文献学の哲学への発達
         二、文献学主義に対する批判の諸原則




 まず問題の意味を説明しよう。
 現代に於ける唯物論の一つの課題は、世界と精神(文化)とに対する科学的批判である。ここに一つの課題という意味は、之だけが現代に於ける唯物論の課題の凡てではないということだが、更にここに批判というのは、批判されるべき対象の現実的な克服に相応する処の理論的克服のことである。理論的な克服だけで事物は決して現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服なしに実際的な克服を全うすることは実際的に云って出来ないことだ。世間では往々批判というものを実証に対立させて、消極的な労作にしか数えない場合が多いが、之は実証主義の安易な知恵に発するものだ。無論又、力量のないくせに眼だけ沃えた傍観者の批評趣味や、それから所謂批判主義などは、吾々が今必要とするこの批判とは殆んど全く関係がない。
 この批判が、そして科学的批判だという意味は、統一的で最も広範な科学的範疇(云い直せば哲学的範疇)を使って事物を分析する処の批判ということである。統一的で包括的な科学的諸範疇・哲学的諸範疇の組織は、無論厳密に云うとただ一つしかあってはならない。一つしかないということが客観的で科学的であることの特色の一つでもあるからだ。そういう唯一性をもった哲学的範疇組織を今日、唯物論(乃至もっと説明して云えば弁証法的唯物論)と吾々は呼んでいる。唯物論はこうした唯一の科学的な論理のことなのだ。――この論理が使う色々の根本概念は、実際上はどういう外貌をもった具体的表象をでも外被として纏うことが出来る。実際吾々は表象をアナロジーやユーモアやファンタジーやサジェッションに結びつけていつも文学的にもちいることしか他に道を有たない、そうしなければ実際的の文章にも思想にもならないからだ。だが、それにも拘らず、否それであればこそ、そういう浮動する文芸的表象、日常的観念の碇となるものが唯物論の範疇と範疇組織とでなければならない。
 処で、唯物論によるこうした科学的批判の一般的な基本的方法は、すでに広く知られている処であるが、問題はこの一般的な方法を、現在の諸事情に即して役に立つように具体化すことなのである。科学的批判の現在に必要な諸根本命題=諸原則をこの一般方法から導き出しまたは新しく工夫して之に組み入れることなのである。――私の現在の課題は特に、現下の哲学的観念論とそれのありと凡ゆる社会的・文化的適用とに対して、技術的に科学的批判を行うのに実地に役立つ諸原則を求めることに他ならない。この見透しに従って私はこれまで、一方ジャーナリズム・日常性・常識などの問題を取り上げたし、他方解釈哲学乃至その一つである文学主義に対してどこから攻撃してかかるべきかという吾々の態度をテーマとして来た(三、四、一一、一四、等を見よ)。無論この二つの系統の問題は実は同じ根柢に基いている。そしてまだ残っているテーマは沢山ある。
 文献学(フィロロギー)は文学主義の問題其他と並んで、解釈哲学(世界を専ら解釈して済ます哲学)の問題の特殊な場合の一つとして提出される。つまり文献学主義がここでの問題なのである。或る人は文献学(Philologie)を文学と呼ぶことを提案し、そして所謂文学を文芸と呼ぶべきだと主張しているが、この提案は或る尤もな理由を有っている。少くとも、ここから見ても判るように、文献学主義の問題が文学主義の問題とごく近親な関係に立っていることをまず記憶しておくのが便利だろう(文学主義に就ては一一、「偽装した近代観念論」を見よ)。

   

 Philologie(文献学)は世間で通俗的に言語学と訳されている言葉である。併し言語学は必ずしもフィロロギーではないことを注意しなければならぬ。例えばソシュール(Fer. de Saussure, Cours de Linguistique Générale)によれば、言語の研究はギリシアにおいて文法学としてはじまったが、それが主にF・A・ヴォルフの学派(十八世紀後半)によってはじめて、所謂フィロロギーと呼び慣わされるようになったに過ぎない。しかもこのフィロロギーは主に古典語と古典語の解釈法に止まっていて、まだ活きた言葉の研究ではなかったので、本当の言語学はこのヴォルフ的な「フィロロギー」をつき抜けて、比較文法学へまで発達し(F. Bopp)、やがて本来の科学的な言語学(それはもはやフィロロギーではなくて Linguistique と呼ばれる)の段階に這入ったのだ、と説明されている。でフィロロギーなるものが必ずしも言語学と一致しないばかりではなく、実は言語学が横合いから之に触れ又は之れを横切り交叉する処の或る一地帯を意味しているに他ならない。フィロロギー(文献学)はフィロロギーで、その後言語学とは比較的別なコースを辿って展開されているように見える。つまり例のヴォルフ的な「フィロロギー」は、単に言語が文献学と交叉した地点に他ならなかったわけで、従ってフィロロギーを特に文献学、更に「文学」とさえ訳す理由があるのである。ヴォルフのこのフィロロギーは更に一般の文芸理論乃至芸術理論とも交叉している(例えばボーザンケトの美学史を見よ―― B. Bosanquet, A History of Aesthetic. Chap. IX)。単なる言語学ではない所以だ。
 吾々は文献学の問題に就いて、所謂言語学自身の問題は之を一応等閑に付してもいいことになるわけだが(事実、言語学は現今の思想の動向に対して直接の影響を有っていないから)、併し文献学が言語学的なものから全く独立なものでなく必ずどこかで之と交叉しなければならないという点は、どこまでも忘れてならない要所である。つまり文献学の問題は、後にどれ程それが古典や歴史や、又更に哲学自身の問題としてさえ生長しようとも、万一にも言葉の問題を離れてしまっては、もはやどこにも定位を有たなくなるわけで、大まかに云えば、言葉・言語と思想・論理との間から起きる困難が、文献学乃至文献学主義の問題を提起するのである。――事実を云えば文献学的研究と言語学的研究とが殆んど一つに結び付いている場合は決して少なくない。すでに先に云ったヴォルフがその先駆的な一例だが、十九世紀ではW・v・フンボルトが何よりもいい例である。言語の比較研究が彼に於ては直ちに古典芸術の理解や歴史記述の問題に連続するのであるが、それは彼の一種の比較言語学が同時に文献学の意義を有っていたからこそ出来たことだ。
 処がフンボルトで見られるように、文献学と言語学との連関は普通、言語哲学と呼ばれるものによって最もよく特色づけられると考えられないでもない。そして言語哲学は一方哲学的な文献学と他方実証的な言語学とに交錯しながら、又それ自身に固有な発展のコースを辿っている。――でヴォルフ的フィロロギーは、言語学と言語哲学とが文献学に於て交叉した点だったと見てもいいことになるが、文献学自身はこの言語哲学からも割合独立に発展する。それにも拘らずここでも大切なのは文献学が言葉の問題から決して解放されるものでないという一つの要点だ。
 文献学としてのフィロロギーは古典特に古典的文書の解読を最初の課題としている。併し事実之は、一方に於ては古典的な造形芸術其他の観照へまで、他方に於ては同時代的な文書及び其他の一般文化的表現の理解へまでその課題を拡大される。文献学が目的を単なる文献の解読に限らず、すぐ様一般的な古典学や同時代的な文化表現の解釈理論へまで拡大されるという点は、このフィロロギーの非常に大切な特色なのであって、そこから文献学が所謂言語学や言語哲学を離れる点が出て来るのであり、従って又一寸見ると、文献学が言葉の問題の制約から自由になって、何か独自の哲学的な――普遍的で現在に対して実際的な意味をもつ――方法にでもなるかのように思われても来るのである。文献学が言語学的なフィロロギーから外へ向って拡大されるプロセスは、大体次のようなものだ――

 文書を解読するのは、云うまでもなく単に言葉や文章を理解するためでなく、そこに盛られた思想や観念をこうして理解するためである。処で何でもがそう簡単に徒手空拳で理解出来るものではないので、理解の用具を提供するものが実は言葉や文章そのものだが、古典にぞくしていたり外国のものであったり、又あまりに専門的な術語に基くものであったりすれば、この理解の用具の使い方自身を又理解するための用具が必要となる。こうした理解の用具・技法が解釈なのであって、理解はいつもこの解釈を通じて行なわれる。フィロロギーはこうした言葉や文章が盛っている思想の解釈の技法を伝承して学問に仕上げたもののことで、狭い意味に於ける「解釈学」(Interpretationswissenschaft ―― Hermeneutik)をその哲学的核心としているのである。――なぜ狭い意味に於けるというかと云えば、この解釈学はまだ言葉(乃至文章)の説明という直接目的を離れていないからである(その内でも更に最も狭い意味で解釈学という言葉を使えば、言葉や文章の文法学的説明が解釈の事になる)。言葉の説明という直接目的から離れないこの狭義のフィロロギー=解釈学の立場はA・ベックなどが最も忠実にこれを代表している(A. Boeckh, Enzyklopädie und Methodologie der philologischen Wissenschaften ――ここでは言葉の説明――解釈の仕方が四つに区別されている)。

 処がフィロロギーの哲学的核心が解釈学にあるということ、理解という独自の人間的認識作用にあるということは、この理解対象や解釈学の適用範囲を、もはや文書だけには限定しないことを意味する。況して古典文書だけに限定しないことを意味する。だから文献学をその哲学的核心について受取ることは、やがて文献学を単に言葉の世界に制限されない一般的な解釈学として、又更に一般的な理解論として(Hermeneutische Theorie, Theorie des Verstehens)受取ることである。――之を極端に推して行けば、やがて文献学は外見からいうと殆んど全く哲学的な(そして無論観念論的な)科学自身と一致することになり、又結局は同じことだが、哲学の方が殆んど全く文献学化されて了う、という結果になる。こうした哲学的文献学(?)への動きを代表するものが、誰よりも先にシュライエルマッハーなのである。
 シュライエルマッハーは無論ベックに較べて先輩である。だから時間上から云えば、シュライエルマッハーの哲学的解釈はベックの手によって再び言語学的解釈にまで萎縮したのだとも考えられる。だから文献学という科学の勝手な生長から云えばシュライエルマッハーがその最高峰か分水嶺に立つわけだ(但し現代に於ける文献学の哲学的認識への全面的な適用は今見ないとして)。――一体解釈学乃至フィロロギーは、実はギリシア以来存在する。アリストテレスはフィロソフォス(哲学者――知恵を愛する者)はフィロロゴス(文献学者――言葉を愛する者)だとも云っているし、アレキサンドリアにはすでに文献学派と呼ばれるものが存在した。中世を通じて(アヴェロエスや聖トマス其他)、聖書とギリシア哲学古典との解釈学は著名である。だが近世の解釈学の特色は、それが組織的に科学的で、従って又聖書とかギリシア哲学古典とかいう特定の古典だけを対象とはしないという一般性にある。聖書解釈学を科学的にしたものは Semler であり、之を一般的な解釈技法にまで高めたものは Meier だと云われるが(Dilthey, Die Entstehung der Hermeneutik)、つまり近代文献学の始まりは宗教改革以後だと見なければならぬ(ルターは某大学の図書館でバイブルを探した処、塵にまみれたラテン訳がたった一冊出て来た。彼は之によって初めて聖書なるものを手にしたという話しである。当時はバイブルを読まなくても立派に神学の教授になれたとさえ云われる)。そして文献学と哲学とを最も密接に結びつけたものはプロテスタントとしてのシュライエルマッハーであった(シュライエルマッハーの書物―― Akademiereden über Hermeneutik. その先駆者としてはアスト―― Fr. Ast, Grundlinien der Grammatik. Hermeneutik und Kritik 1808; Der Grundriss der Philologie 1808. 及び前に述べたヴォルフ―― Fr. A. Wolf, Museum der Altertumswissenschaft. Leitaufsatz)(J. Wach, Das Verstehen 1 参照)。
 だがシュライエルマッハーのフィロロギーが哲学的な深さを持つということは、同時に夫が神学的な深さを持つということに他ならない(事実彼は哲学者としてよりも神学者として、又宗教的啓蒙家として、の方が勝れていた)。彼の神学乃至哲学は、無限なものへの思慕によって裏づけられている。この無限なものへの思慕が、独り中世と云わず又ギリシア古典と云わず、凡そ過ぎ去った世界への回顧的な思慕にまで行く処が、ドイツ・ロマンティックの落ちつく処なのである。世界の審美的感想と人間的情緒による解釈とが、そこに於ける唯一の「科学的」なものとなる。或る時期のシェリングはその哲学によって、現実を消去して自由なファンタジーの世界を導き入れたが、この自由なファンタジーの代りに過去の歴史を導き入れるものが、シュライエルマッハーの解釈学の動機だと云ってもいいだろう。――文献学乃至解釈学が哲学と結びつき又は哲学的となる時、その哲学はこのロマン派的・審美的・回顧的・観念的な一種の解釈哲学であったことを注意しておかなくてはならない。

 シュライエルマッハーの文献学(乃至解釈学)は併し、どれ程それが哲学的であり又哲学化されていると云っても、依然として文献学(乃至解釈学)プロパーの線の上に止まっていることを忘れてはならぬ。なる程彼によって文献学乃至解釈学はごく一般的な方法にまで、又可なり深遠とも見える世界観にまでさえ拡大された。がそれはまだあくまで、文献学乃至解釈学プロパーとして拡大されたものであって、文献学乃至解釈学が、文献学乃至解釈学プロパー以上又は以外のものとして拡大されたのではない。――本当に文献学が哲学化され、或いは同じことだが、哲学が文献学化されるためには、すでにW・v・フンボルトでも見られたように、その前段階として歴史の問題がこのフィロロギー・プロパーの線から独立しなくてはならなかった。文学が歴史記述又は歴史哲学の問題として、テーマを改めて現われる時、文献学は哲学へ向って決定的な飛躍を用意するのである。ここから初めて、理解一般というものが文献学プロパーや古典学に於ける「理解」から独立化して、やがて一切の人間的認識の本質だと宣布され始めるのである。
 この跳躍の最初の準備は恐らくドロイゼン(J. G. Droysen, Historik)の内にある。彼によれば理解は歴史学的方法の本質だということになるのである。処がG・ジンメルの『歴史哲学の諸問題』になると、理解というこの歴史的認識そのものが、もはや単に歴史学の方法であるに止まらず、やがて一般的な哲学的態度そのものを決定するものとなるのである。これが最も大規模に展開されたものは云うまでもなくディルタイであって、彼は一方その精神科学の記述方法を例の解釈学から受取っていると共に他方、理解こそ、こうした精神科学の記述を通して表わされるその所謂「生の哲学」の、認識理論の枢軸をなしているものだ。吾々の生活は歴史に於て客観化されて表現される、この表現が本当の精神なのであって、この精神の把握を通して初めて、吾々は却って自分自身の生活を知ることが出来る。――表現の解釈こそ生の理解なのだ。哲学は生が歴史の内に表現されたものの解釈を通して生みずからを自己解釈し従って又自己理解することなのだ、とディルタイは主張する。――かくて歴史に於ける理解というものを踏み台にして、文献学乃至解釈学は、歴史哲学にまで、又更に哲学そのものの方法にまで、高められる。この際、この文献学乃至解釈学によって支援される「歴史学」や「生の哲学」が、どういう素性のものであるかは、今更説明するまでもないことだろう。
 文献学が解釈学=理解論として、その本来の文献学的地盤である言葉の問題から飛躍して哲学と一つになったのは、ディルタイを以てさし当りの代表者とするのであるが、併しディルタイのこの文献学的哲学は、その実質から云って精神(文化及び社会)の最も豊富な歴史的記述に他ならないのだから、そして歴史的記述から云えば何と云っても文書の文献学的解釈が中心的な手続きであることに間違いはないのだから(仮に文献学乃至解釈学が歴史科学の方法にならないまでも)、その点から云えばディルタイの哲学はなお文献学的・解釈学的な本質のものである権利を、或る限界の内では、実際上持っているわけだ。仮にこの哲学を歴史の原則的な記述に他ならぬものと考えて見るなら、それがフィロロギー的であることに何の不思議も一応ないだろう。その哲学の無意味な点は、夫が単にフィロロギッシュだと考えられる処にあるよりも寧ろ、一応当然文献学的であってもよいこの哲学も結局解釈哲学につきているという処にあるのである。この点を除けば、ディルタイの哲学は実に現実的で健全なので、これは却って取りも直さずその文献学的な方法のおかげだとさえ云えるかも知れない。――併し文献学的解釈学的哲学は、いやしくも歴史記述という特別な形態を離れる時、その分相応の地盤を失って、一挙にして昇天して了わざるを得ない。M・ハイデッガーの解釈学的現象学は丁度そうしたものに相当する。
 ハイデッガーがフッセルルから受け継いだ現象学なるものは、元来が文献学的なものと無縁であったばかりではなく、その反対物でさえあった。フッセルルが主にディルタイの生の哲学に対して厳密学としての哲学を主張したことはよく知られている通りだし、現象学の現象という観念を直接にフッセルルに伝えたF・ブレンターノの『経験的心理学』そのものも文献学と殆んど何の関係もない。更にブレンターノが現象という観念を引き出したA・コントの実証主義こそは批判や解釈なるものをこき下すことを建前とするものに他ならなかった。近代文献学が主にプロテスタントのものであって人間的情意の総体やそのオルガニズムを尊重したに対して、カトリック的なフェノメノロギーはそうしたヒューマニズムと縁の近いものではなかった。そこをハイデッガーはディルタイの解釈学とフッセルルの現象学とを結合したのである。――尤も晩年のディルタイはフッセルルの現象学的分析に可なり動かされていたし、F・ブレンターノ自身有力なアリストテレス文献学者でもあったから、この結びつきが諸般の事情から云って唐突だなどと云うのではない。問題はもっと根本的な処に潜んでいる。
 どういうフェノメノロギーも凡て非歴史的だということにまず注目してかからなければならぬ。ヘーゲルの『精神現象学』であっても、意識発達の段階の叙述ではあっても、書かれてあるのは意識の歴史でもなければまして世界の歴史でもない。それが現代の所謂フェノメノロギーになると愈々ハッキリするのであって、現象とは現象が現われては隠れる一定の舞台のことで、その舞台面が意識とか存在とか其他々々と名づけられるのである。だからそれだけから云っても、現象に解釈学や文献学を結合することは、もしその解釈学なり文献学なりが歴史の問題からの由緒の正しさを持つ限り、元来無意味でなければならない。処がまた、現象というものの意味は、それがいつもその表面に於てしか問題として取り上げられない、という処に横たわっている。と云うのは、現象の背後や裏面を正面から問題にするということがそこでは無意味なのである。表面化すということが現象するということに他ならない。そうだとすれば、例えば事物の背後や内奥に生活の表現を探り、事物の裏から事物の匿された意味を取り出すといったような解釈学や文献学は、現象なるものに対して初めからソリの合わない方法だと云わざるを得えない。表面というものの厚さを量ることは出来ない相談だからである。
 にも拘らずハイデッガーは解釈学的な現象学を企てようとする。つまりこの意図を客観的に見れば、解釈学乃至文献学からその歴史用の用途を抜き去り、歴史的認識に代わるような体系的な、その意味に於て形而上的な(必ずしも所謂形而上学だというものではない)哲学上の学的構築を齎らそうという事になる。文献学乃至解釈学は歴史的には使えないから何か現象的にでも之を使う他はない。ドイツ・イデアリスムスの世界観としての(人々はそれを好意的に形而上学と呼んだ)歴史的行き詰まりを打開するには、こうした非歴史的な哲学体系が何より時宜に適したものであったに相違ない。ナチスの綱領がドイツの小市民を魅惑したと同様に、ドイツの所謂教養ある(?)インテリゲンチャを魅惑したのがこの哲学「体系」であった。
 処が歴史的用途から解放されたこの解釈学乃至文献学は、云うまでもなく完全に「哲学」的用途のものにまで昇華する。今やハイデッガーに於ては、文献学乃至解釈学は、そのプロパーな言語学的又歴史学的桎梏から脱して、正に哲学そのものの方法にまで羽化登仙するのである。文献学にとってこれ以上の名誉は又とあるまい。と同時に、これ程文献学にとって迷惑な事もないのである。なぜというに、ここでは文献学はその本来の歴史学的言語学的な実体性を失って、極めて戯画化されて現われざるを得なくなるからだ。例えばハイデッガーによれば、距離(Entfernung)とは遠く離れてある(fern)処へ、手を伸ばすなり足を運ぶなりして、その遠さを取り除く(Ent)事によって、成り立つというのだ。こうした説明は一応甚だ尤ものように見えて案外他愛のないものであり、殆んど一切の言葉が同じ仕方で説明出来ない限り、語源学的な意義さえそこにはないのであって、之は何等言語学的な説明でさえあり得ないのだ。言葉(ロゴス)が現象への通路だというが、こういう調子では、この通路もただ割合に工夫を凝した思いつきの示唆にしか過ぎない。解釈学の実質がこういうフィロロギーのカリケチュアにまで萎縮したのは、全く解釈学や文献学が自分に固有な歴史学的乃至言語学的エレメントから跳ね出したからで、もしそれ以外になおこの解釈学の実質があるというなら、それは解釈学的現象学の科学的方法にではなくて、そうした方法が(そだ)っている処の一つの何か僧侶的な「イデオロギー」にしか過ぎない、という事を注目すべきだ(死・不安・其他)。
 で、文献学はこうして哲学化されることによって却って戯画化される。逆に哲学は、文献学化することによって非科学化す。文献学は文献学として無論少しも誤ってはいない。だが世界の現下のアクチュアリティーは決して文献学の対象ではないのだ。だから、文献学を何か特別な主賓として待遇しなければならないと考える哲学は、必ず何かこの現実=アクチュアリティーを恐れなければならぬ理由を有った哲学に違いない。――そしてアクチュアリティーが問題にならぬ時、どんな「歴史」も意味がないのだ。
 さてハイデッガーの解釈学的現象学は、存在の問題を取り上げる、夫が「存在論」たる所以だが、存在(Sein)は更に人間存在から始めて取り上げられる。そこで問題になるものが現実存在(Existenz)だ。その意味で存在論は「人間学」から始められる。夫は存在の自己解釈であった。
 人間学(アントロポロギー)の歴史は極めて多岐であり、その言葉の意味さえが様々である。遠く人間知に始まって人性論人類学更に哲学的人類学にまで及んでいる。だがここで云う人間学はそうしたものから区別された人間学のことであって、この区別を与えるものがとりも直さず解釈学の有る無しにあるのである。だからこの人間学は云わば解釈学的人間学に他ならない(人間学の系統的な批判を私は機会を得て試みたいと思っている)。――だから少くとも、例えば之をL・フォイエルバハの宗教批判のための人間論などと同列に置くことは出来ない。ここで解釈的と呼ばれる所以は、すでに云ったように歴史認識から足を洗ったという処にあるのだったから、結局残るものとしては、形而上的な従って又精々神学的な建築材料しか持ち合わさないからだ。之に直接比較されてよいものはさし当りS・キールケゴールの著作などだろう。――なぜこんなことを云うかと云えば、日本では曾てはフォイエルバハに結びつけられて、人間学なるもの一般が、何かマルクス主義哲学と関係あるもののようにして輸入されたからである。云うまでもなく輸入されたこの人間学は例の解釈学的人間学のことで、唯物論とは凡そ原則的な対立物だったのだが、にも拘らずこうした人間学が、その素性の曖昧な一般性を利用して、なおわが国の進歩的(?)な自由主義者達に可なりの魅惑を与えているらしい。之は現下の文芸其他に於ける各種のヒューマニズムの素地とさえなるだろう。人間学は今日、あまり素質の高くないインテリの間では一つの合言葉とさえなっている。どんなものにでも人間学という言葉をつけられないことはないが、一旦そう名づけて見ると如何にも尤もらしく進歩的(?)に聞えて来るだろう。仏教も人間学として(高神覚昇・益谷文雄・其他の諸氏)、倫理学も就中「人間の学」として(和辻哲郎)現代物らしくなり多少とも「進歩的」なものになる、というわけである。
 文献学を最も模範的に人間学に適用したものは和辻氏の『人間の学としての倫理学』である(七、を見よ)。否、ただの適用でなくて、云わば文献学からの人間学の演繹だとさえ云っていいだろう。文献学の溶液に存在という微粒子を落すと忽ちにして人間学=倫理学の結晶が見る見る発達する。それ程文献学の適用がここでは完全なのだ。それにもっと完全なことには、この人間の学の方はハイデッガーの人間学から、現象学的残滓をすっかりとりのけて、その解釈学(=文献学)を純化したものなのである。――つまり之はもっと純粋なハイデッガーに他ならない。だから吾々は之に対してハイデッガーの文献学主義に就いて云ったことを、もっと純粋に云い直せば事は足りる。

   

 以上は科学として発達して来た文献学を想定した上で、之を解釈学という一般的な組織的手続きに直して哲学に適用した場合を、解明して来たのであるが、私の今の目標は寧ろ、そうした組織的手続きとしての文献学の代りに、もっと断片的に従って又或る意味では常識的に、文献学的なものに頼って物を考える場合の社会現象に対してであって、その意味に於ける文献学の無組織的適用が次の問題だ。現在のわが国では特にこの問題が時事的重大さを持っているのである。
 だがこの現象を一つの社会現象として見れば、一見極めてナンセンスなものから、一見極めて荘重なものにまで及んでいる。坊間の言論家(為政者や朝野の名士も含めて)の茶番のような言動から、ブルジョア・アカデミーの紳士達(教授から副手や学生まで含めて)の高遠真摯な研究に至るまで、この現象は及んでいる。そしてこの社会現象の哲学的意義になると、坊間の茶番劇だからと云って、決してアカデミーの悲劇的な身振りに較べて、その重大さが劣るとばかりは云えない。却って茶番劇であればある程、その科学的批判の原則は複雑で困難だというのが事実である。実際相手が非科学的な時、之を科学的に批判するほどムツかしいことはあるまい。実はこの困難に打ち勝つためにこそ、私は文献学の問題の必要を痛感するのである。
 尤もこの現象にも罪障の甚だ深いものと割合罪のないものとの区別はある。前に云った茶番と悲劇との区別に関係なく、別にこの区別がある。例えば和辻氏の倫理学は、その推理過程を殆んど凡て辞典的根拠に置いているが、それが「純粋」解釈学の重大な症状であるにしても、それだけ取って見れば比較的罪は軽いと云っていいだろう。人々は容易にそこにすぐ様フィロロギーのカリケチュアを気づくだろうからだ。紀平正美氏のやり口でも、その文義的論拠にぞくするものは、同様に思い付きのギゴチなさを感じさせるだけで、真剣な問題を惹き起こす類のものではない(例えば「理」=コトワリ=断=分割―ヘーゲルの Ur-Teilen)。このカリケチュア自身のカリケチュアは一例を挙げれば木村鷹太郎氏の日本=ギリシア説のようなものに相当するが、之は併し実は、かの教授達のこの点でのナンセンスを単に高度にして見せたものに過ぎない。このフィロロギー現象と精神病理現象との間にはあまり本質的な距離があるものではない。
 重大なのは、現在のアクチュアリティーに向って古典無批判的に適用することの罪である。否、もっと一般的に云えば、文献学的意義しか持たない古典を持ち出し、之に基いた勝手な結論で以て現実実際問題を解決出来るという、故意の又無意識の想定なのである。之も亦、巷間からブルジョア・アカデミーの回廊にまで及ぶ現象である。――例えば権藤翁における南淵書や、神道家の国学古典などが最も良い例で、この古典の古典としての真偽とは関係なく、古典の現在への時事的適用自身が無意味でなければならぬ。紀平・鹿子木・平泉・の諸氏やその他多数の国粋主義的ファッショ言論家が、この日本ものの部類にぞくする。東洋もの乃至支那ものでは、西晋一郎氏の「東洋倫理」や漢学者・アジア主義者の言論、印度ものとしては仏教僧侶の時局説法、更に欧米ものとしてはブルジョア・アカデミー哲学者達の半フィロロギー的哲学問題の選択――文献学的に論じて行くうちに夫がいつの間にか問題の実際的解決になるとでも思っているらしいドイツ語フィロローグやギリシア文引用家達の哲学的作文等々、その現象には限りがない。
 こうしたものを一つ一つ部分々々に批判して行くことは無論決して不可能ではない。一々現実界の状態や運動に引きあててそのナンセンスを実証してもいいし、各々の不統一な主張をアブサーディティーにまで追い落してもいい。だが困難はこういうデタラメなフィロロギー現象が、限りなく存在し又とめ度なく繰り返すという事実にある。吾々は百億という数値の〇を一つ一つ書いている煩に耐えないというので、10
n といったようなフォーミュラ(公式)を必要とすることになるが、それと同様な必要から、文献学のこの組織的な適用に対する批判の諸公式を、根本命題、原則の形で、今四つ程挙げようと思う。
 第一、一般に言葉の説明は事物の説明にならぬ。――この判り切った命題は実は私の云いたい事の初めであり又終りでもある。現在使われている各国乃至各民族の言葉は、当然夫々の現実の事物に対応する観念を云い表わす、だがそれにも拘らず言葉と論理との間のギャップはいつも問題として残る。ここで論理というのは概念が実在に対する対応関係を云うのであるが、この論理が人類の歴史を通じて発達すればする程、即ち実在に対する概念の対応が具体的になり精細になればなる程、言葉の方はいつも論理に引きずられることになるから、言葉と論理との間のギャップの可能性は増々大きくなる。論理は思想を首尾一貫して貫徹する活きたメカニズムだが、処が言葉も亦社会的に消長する活きた存在で、言葉は言葉でそれ自身の発育と代謝機能とを有っている。言葉の説明、言葉による説明は、夫々の言葉の語源からの変遷を溯ることを普通とするが(もしそうでなければ社会的な統計でもとって「通念」を算出しなければならなくなる)、そうして溯源の結果発見されるだろう言葉の語源的な意味を採って、夫によって事物を説明し、それで現在の言葉による事物の説明の代りにするならば、言葉と論理との間のギャップの可能性は二重に大きくなるわけだ。
 古代の思想のメカニズムでは、言語と論理(古代論理)とは極めて親しい関係に立っている。例えばE・ホフマンの論文(E. Hoffmann, Sprache und die archaische Logik)によれば、秘儀(ミュステリオン・語るを許さず)――神秘(ミュスティック・語る能わず)――神話(ミュトス・語らんと欲す)=ミュトス(話)――エポス(言葉)――ロゴス(思惟)という具合に、言語と論理との親近関係をつけることが出来る。つまり語ることを問題にしている前の系列と、考えることを問題にする後の系列とがミュトスによって直接に連なっているのである。処が近代の論理はこうした言葉から独立することをこそその使命としている。
 言葉による説明は、だから、説明される事物が発展した社会の所産であればある程、夫を何等か古代的なものにまで歴史の流れを逆行させない限り、事物の説明の態をなさない。文献学主義者は、何等かの意味で古典にまで論拠を溯行させようとしたがる、そうした故意の又無意識の企てを有つのだ。併し――
 第二、古典実際問題の解決の論拠とはならぬ。一体古典とは何を意味するか(古典と云っても古典主義やギリシア古典と必ずしも関係はない)。自然科学に於ける古典主義に就いては改めて考えなければならないが、少くとも文学・哲学・社会科学の領域に於ける古典は、大体三つの意義と科学的用途とを持っていると考えていいようだ。(一)或る考え方や経験(実験までも含めていい)の有用な先例又は文献として、(二)歴史的追跡のための事実又は資料として、そして最後に(三)訓練のための用具又は模範として。(一)ならばこの古典が先例又は文献として現在役立つかどうかは古典自身が決める事ではなくて、現在の実際的な事情が決定することである。現に文献を先例として引用しただけでは、一向自分の主張の論拠にはなるまい。文献は論拠として見る限り、すぐに古くなるものだ。(二)ならば資料の使い道の決め方は資料自身にあるのではなくて、夫は全く現在の実際的な認識目的に基くことだ。資料それ自身は論拠にはならぬので、誤謬の歴史に資する資料というものがあるからである。(三)ならば模範は模範であって少しも論拠ではない。――だからいずれにしても、古典はあくまで参考物の限界を出ないもので、現在の実際問題解決のための論拠を提出する使命をもつものでもないし、又持ってもならない。
 ただ古典の大切な条件の一つとして、それが歴史的に伝承されて今日現在に至ったものだという点を忘れてはならぬ。そうでなければ古典ではなくてただ過去の一介の歴史的所産にしか過ぎない。でこの古典が引く伝統の糸は、哲学なら哲学史の、社会科学なら社会科学史の、流れを貫いていつも不断の作用を各時代に及ぼしている。だからして古典は論拠とされてはならぬが、併し又必ず参照されねばならぬものとなる。つまり古典とは実際問題の必要に応じて批判され淘汰・陶冶されて行かなければならないものなのである。
 批判と淘汰・陶冶を用意しないで、その意味で無条件に、古典を何かの用に役立てることは、その言葉が示す通り、文献学主義の根本特色の一つである。古典の引用に当ってもこのテーゼはその通りあてはまる。自分の主張を単に権威づけるために、古典的文章を引用することは、単に馬鹿げた無用なことばかりではなく、現在の問題を古典の時代の問題にまで引きかえす処の反動をさえ意味しているのだ。
 普通このやり口を公式主義と一口に云うのだが、併しそう云うのは正確でない。公式は実は常に運用されるための公式なのである。公式主義の特色は、既知の公式を使うことにあるのではなく(公式を使わなければ科学的でない)、却って、既知の公式を使う代りに無用にもワザワザ之を改めて導き出して見せて、そしてそこが解決点ででもあるかのように問題を打ち切って了う、という処に横たわる。――併し一体公式は古典の意味を持たないか、古典的ということは普通、均斉のとれた典型的なことだが、之は科学の上では公式に相当しないか、という疑問は起きるかも知れない。併しそうではない、典型的ということは、(三)の模範性に他ならないからである。吾々は之を教育上の目的で使用することは出来ても論証上又は製作上の目的に之を技術的に実地に使用することは出来ない。もし出来るとしたらミケランジェロのデッサンの上に色彩を施すことも完全な絵画の創作となるだろうが、それは無論文学で云えば剽竊に相当するものでしかないだろう。処が公式は単に訓練上だけではなくいつも論証上の又広く制作上の目的に実地に技術的に役立てられるべきもので、古典のように過去のどこかに位置する事物ではなく、現在日常的に手回り近くに用意されてある処の観念的な生産用具に他ならないのである。
 古典を何か実際的に直接技術的に役立つ公式か何かのように思い込むのは、つまり古典を使って制作をすることと、古典を理想として製作することとを混同するからである。この区別は唯物論的には重大な意味があるが、観照的な解釈家であり審美的な理解者である古典学主義者(そうした特殊の文献学主義者)にとっては、夫はどうでもいいことらしい。彼等は云うまでもなく古典を実地に技術的に用具として使うことは出来ない。併し又初めから使おうなどとは思いもよらないのである。元来そうしたものが古典なのだが、之に反して公式ならば夫が使われないというようなことは許すべからざる不経済だろう。――古典の権威に対する不当な尊重は、文献学主義の一つの宿命である。
 第三、古典的範疇はそのままでは論理をなさぬ。――古典に論拠を求めるという誤りは、要するに古典的範疇乃至範疇組織を、現在に於ても論理的に通用するものと認めることに他ならない。ギリシア古典・印度の古典・支那・日本・中世ヨーロッパ・アラビア・其他の古典的文物は、夫々に固有な範疇と範疇組織=論理を持っている。古典的でなくても未開人は未開人固有の範疇論理を有っている。処が之等は今日の吾々の、即ち現代の文明諸国の、国際的に通用する論理とは同じでない。極端な例はレヴィ・ブリュール等の一連の研究によって示されているが(未開人に於ける特有な集団表象・分有=パルティシパションの論理・先論理)、古代印度人の思考のメカニズムも亦、今日の国際的な論理との間に可なり決定的なギャップを示している。その良い例は因明論理の論証手続きなどだろう(例えば Betty Heimann という女史は古代インド的思考の研究を Kant-Studien に時々発表しているが、その一つによるとヨーロッパと古代印度ではアナロジーをさえ絶する程異った思考のメカニズムがあるという結果になる)。
 蓋し範疇組織=論理は、それぞれの時代の社会の歴史的条件によって現実界に対応すべく組み立てられた思考の足場なのだが、この現実界が発展すれば当然この足場も発展せざるを得ない。足場が発展するには、この範疇組織という足場の材料となっている各範疇がモディファイされ止揚されることによって、断えず足場が再構築されて行かなければならぬ。古典的範疇だからと云って、勝手に持って来て現実の実際問題を処理するオルガノンとすることは、だから絶対に許されない筈なのである。時代は時代の範疇組織を、論理を有っている。文献学主義は処で、古典の権威に対するその信頼によって、時代の範疇組織=論理を知らなかったり、又強いて認めなかったりする。だが、古典的範疇はなる程理解はされよう、併し使うことは出来ない。
 第四、古典的範疇は飜訳され得ねばならぬ。併し飜訳はいつも飜訳に止まる。――狭い意味に於ける飜訳は一つの国語の文章を他の国語の文章で置き換える事だが、広い意味の飜訳は、一般に文化の紹介を意味している。どれも文献的労作である点で変らない。シュレーゲルのシェークスピア飜訳や、カーライルのゲーテ紹介などはこの二つの意味を兼ね具えたものであった。正にこうした飜訳こそフィロロギーの使命であり、現在の実際問題解決に対するフィロロギーの唯一の寄与の仕方なのである。――だが飜訳は飜訳であって原物ではない。未開・古代的・古典的な文書や言葉であっても、又同時代的な同一文化水準の外国語でも、言葉として或る程度まで飜訳は可能でなくてはならぬ(この文学上の飜訳の問題に就いては野上豊一郎氏「飜訳論」――岩波講座『世界文学』の内を見よ。なおフェノメノロギッシェな試論としては L. F. Clauss, Das Verstehen des sprachlichen Kunstwerks, 1929 ― Husserls Jahrbuch, Ergänzungsband などがある、尤も之は大したものとは思われないが)。だが広い意味の飜訳は文化の紹介なのだから、問題はこの種の文学上の飜訳に止まることは出来ない。今何より大事なのは範疇乃至範疇組織の飜訳の問題なのである。
 今日の同時代諸国の間の論理の飜訳は併しあまり問題ではない。なぜなら世界の生産力が或る程度まで発達した結果、生産技術と生産機構とは殆んど全く国際的な共通部面を持つようになって来た。そして之が夫々の国の生産関係の尖端をなすのだから、尖端は国際的に出揃ったと云っていい。この生産の尖端に誘導されねばならない理由を有っている夫々の国々の論理機構は又、その尖端を出揃わせるわけで、それに交通運輸機関の著しい発達の必要がこの論理の国際性を日増しに現実的なものにして行きつつある。で、同じものを同じものに飜訳するのは飜訳ではなくて、ただの交換か授受に過ぎない。ヨーロッパ文明が日本で消化し切れなかったり、日本精神が外国人に判らなかったりすると考えるのは、論理の飜訳の意義を知らぬもののデマゴギーであって、そういう人間に限って、古代インドや古代支那の論理を平気で現代の日本に使おうとする癖がある、ということを忘れてはならない。
 実は問題は、古代的・古典的諸論理を現代的論理へ飜訳する場合にあったのである。例えばインドの原始仏教の文献的内容は、単にそのテキストが国訳されただけでは吾々の理解にとって不充分なので、更に之を現代的範疇と範疇組織によって解釈して呉れなければ、原始仏教の文化内容も遂に今日の吾々の文化内容と接続し得ないで終る。単に古典学的興味の対象とはなっても文化的関心の圏内には這入って来ないだろう。処が例えば之を木村泰賢氏のようにカント哲学風に解釈して再現すれば初めて多少現代の文化財としての意義が生れて来る。更に之を和辻哲郎氏のように現象学的な立場からでも解釈し直せば、すでに吾々にとって理論的に充分読めるものとなる、という次第だ(和辻哲郎氏『原始仏教の実践哲学』参考)。
 だが範疇又は範疇組織=論理を飜訳するという事は、AのものをBのものへ移して、Aの生きた生活連関をBに於ける活きた生活連関であるかのように作為することに他ならない。Aに於て活きていた論理はだから、Bへまで飜訳された上で、なおBに固有な活きた連関を有つことは、決して許されない。今その限りBへ移し植えられたこの被飜訳論理は死んでいる、だから本当の論理ではあり得ない。このAが古代的・古典的論理であり、このBが現在の実際的論理なのである。――だから飜訳は永久に飜訳であって、遂に原物ではないというのである。即ち文献学者は、文献学者の資格に於ては、活きた論理を使用する使用者としての哲学者ではあり得ない。フィロロゴスは決してフィロソフォスではない。ここがフィロロギー・文献学の権利の限界をなしているのである。でこの文献学の制限を、無意識に、そして甚だ往々にしては故意に、無視することが、文献学主義=文献学的哲学の根本的な誤謬か、又は最も根深い欺瞞の要点なのである。

 フィロロギー現象=文献学主義は、解釈哲学(世界を単に解釈することによる観念論)の一つの特殊な場合であった。無論文献学主義の形を採らない解釈哲学は他に多い。解釈哲学が必らずしも解釈学的哲学に限らないことは注目すべきだが、併し文献学的・解釈学的・哲学の組織的な又断片的な形態が、今日わが国の至る処に著しく目立つことに、着眼することは、各種の日本主義に対する批判にとって、極めて大切だ。





 
 「常識」の分析
      
――二つの社会常識の矛盾対立の解決のために



 文芸の領域では最近、日常性という問題が相当話題に上るように見受けられる。一部の知識人によると、現在の文芸家の或る者達が尊重する不安というのも、社会生活の経済的政治的又観念的な不安であるとかないとかいうよりも、何よりも先に、日常生活意識に対する懐疑と攻撃、としての不安でなくてはならぬというのである。そうした不安にこそ、インテリゲンチャの特色と、更に又インテリゲンチャの積極的な自覚さえが宿っていると云う。日常的なものは、即ち、こうした不安らしいものと対比させられて、一部の文芸家の観念に取り入れられる。
 文学的修辞からすると、日常的ということは又俗物的なことでもなくてはならぬ。だから日常性は、俗物主義に反対するためにも取り上げられる必要があり、そして改めてハタき落されなくてはならないということになる。こうした考え方は、確かに一種常識的な尤もらしさを持っている。だが、では、日常性というものはどういうものか、ということになると、結局それが不安を覚えない俗物さの対応物だということに尽きているらしく、人々はそれ以上面倒な商量や考察を敢えてしようとはしないようだ。日常性が不安を知らぬ俗物さの対応物だというこの現在の一つの常識は、その素性を糺すと僧侶主義的な生活へ転心(この宗教的な体験の秘密は今日では各種の転向という世俗的な奇蹟として実現しているが)しない内の空しい堕ちた人間生活のことが日常性のことだとする、ある特定の神学又は哲学から来た民間常識なのであるが、それ以外のそれ以上のことになると、この常識にとってはどうでもいいらしい。必要なことは却って俗物的な情熱で以て日常性を俗物さと対置することでしかないらしい。
 処がこうして常識的に日常性を俗物的だとしか見ない態度が、却ってそれ自身ごく日常的なものに他ならないのであって、従って又それ自身却って甚だ俗物的な常識に過ぎないのだが、俗物呼ばわりをするに熱心なこの俗物達にとっては、俗物さ自身のもつそうしたアイロニーやパラドクッスなどはどうでもよい。この常識は何等の愛嬌もユーモアもなしに、日常性をひたすら俗物呼ばわりするのである。日常性というものにどういうディアレクティッシュな裏の裏があるかにもお構いなしに。――処が日常性には立派に日常性の原理とも云うべきものがあって、それが例えば哲学を俗悪で無意味な形而上論から区別している。それを私は屡々色々の機会に説明したのであるが、日常性を俗物呼ばわりしたくて仕方のないこの常識論は、日常性の今云うような意義に対して全く無感覚な程非常識なのである。
 日常性とか俗物主義とか(その間を「不安」が取りもつのだが)に就いての今日の常識が、すぐ様如何に非常識なものかという事実を見れば、一般に常識というものがどんなに一筋繩では片づかないものかということが判る。処で、日常性や俗物主義の場合は、単にこの常識のアイロニー(所謂ロマンティック・アイロニーのことを考えて貰っては困るが)の一例だというばかりでなく、それ自身常識につらなる一連の諸観念に他ならなかった。所謂日常性―所謂俗物主義―所謂常識という一連の云わばメフィストフェレス的又はサタン的な系列が問題だ。だからこの種の問題は一切、常識に就いての問題に集中するのである。――事実常識は、例えば学問・科学・真理・天才・独創・等々を、試み批判する職能を持っている。サタンは試みるもののことであり、メフィストは誘惑するもののことだ。
 常識も亦文芸の世界で多少は話題に上っている。常識的な文芸批評は遂に常識以上に出ないと云えば、そう云う当の側が非常識ではないかとやり返される。ここの関係に一種込み入った矛盾が横たわっていることは明らかなのだが、誰もまだあまり注意を払っていないようだ。つまり常識は単に全く常識的にしか掴まれていないのである。そして常識に就いて単に常識的な観念しか見当らないのは、何も今日の文芸の世界に限ったことではないのであって、現在の一般の理論や哲学の世界に於てさえこの事情に変りはないのである。で、必要なのは常識の(もはや常識的ならぬ)分析でなくてはならない。

   

 常識は常識的に見て、この二つの相矛盾した側面を有たされている。一方に於てそれは、非(又反)科学的・非(又反)哲学的・非(又反)文学的・等々の消極的又は否定的な知識を意味している。処が他方に於ては之に反して、却って一人前の・ノルマルな・社会に通用する・実際的な健全で常態な知識のことをそれは意味している。前の意味では常識的であることは恥ずべきことであり、後の意味では常識的であることは誇るに値いすることだと考えられる。そしてこの二つの相矛盾した意味が、同じ常識という観念の内に、どう折り合いをつけるかという段になると、常識自身は一向それを気にしない。常識はこの二つの矛盾したものの常識的対立で満足しているのであって、この段階に止まるものが、常識の常識的概念に他ならない。蓋し常識的な態度は、互いに相容れない二つのテーゼを平気で並べておいて顧ないということを、その特色の一つとする。常識は常識自分自身に対してさえそうなのだ。
 或る意味で文学的科学である哲学は、いつも時代の与える常識から出発する。だから常識自身に対する哲学的反省も亦、今云ったこの常識的段階から出発するのを常とする。ギリシア古典に於ける「ドクサ」は丁度そう云った常識に就いての哲学的概念の初歩のもので、真の知識=学問から見れば、それは結果から云って、凡そ真理の反対物でしかあるまい(プラトンの段階)。だが哲学がこの常識・ドクサの有つアナーキスティックな本質に注目することは、この見解がすでにただの常識的概念を離れ始めることを意味する。ドクサの本質は、その内にいくつもの相矛盾するテーゼが平気に並んでいるということである。この相矛盾する諸テーゼを整頓処理して初めて科学的な知識へも行くことが出来ると考えられる。アリストテレスがディアレクティックをこの種のドクサに於てだけ認めたのは、恰もこの段階の常識概念に相当するのである。ここでも併し、常識は真の知識への一つの足場にはなっても、云うまでもなく、真の知識の単なる反対物でしかない。蓋しドクサは一方に於て旧来の自然学者の多少との偶然な見解や知識的伝説のことであり、他方に於てはデモクラティックな民衆の自然発生的な通念に他ならない。そうすれば之がギリシアの貴族主義的な知識の依り処となれないことは当然だろう。
 併し、常識という言葉(Common sense, Gemeinsinn)そのものが、アリストテレスに於てドクサとは全く系統の違った観念として提唱されている点は、よく知られている。彼の De Anima によれば、一定種類の知覚に対応しては、それを受け取る夫々の感官があるのは云うまでもないことで、眼は色や光や形を、耳は音を、知覚する。だが人間は色や光や形――そうした視覚的なものとなって現われる知覚と、音というような聴覚となって現われる知覚との相違自身をも亦知っている。単に赤が青でない事を知るだけではなく(それならば視覚だけで判る)、赤や青が音の高底とは全く別な系列にぞくすることを事実吾々は知っている。而もこの相違は何と云っても知覚的に知られるのであって、別に知覚以外の又は知覚以上の心的能力によって知られるのではない。そうすると五官が夫々感受する知覚をば、相互に比較出来るような、従って五官に共通した而も五官の外にある何かの共通な感官がなくてはならぬということになる。耳でも眼でも舌でも鼻でも皮膚でもない感官が、そこで想定されざるを得ない。こうした共通感官が、後に常識と訳されるものの語源なのである。だが之は無論単なる語源の問題には止まらないのだ。
 この共通感官は、無論五官(外官)ではあり得ない。アリストテレスによれば之は多分脳髄のどこかに位置する器官だと想像される。だが吾々はそのような感官の位置に就いては問題を感覚生理学か解剖学に一任することにしよう。哲学的テルミノロギーとしては、感官は一種の心的性能の意味にまで抽象されるのを常とする。そうした生理解剖学的定位から抽象されたものとしてこの共通感官を見るならば、今云った定位問題とは一応無関係に、之を外官に対する内官と考えることが出来るようになる。無論外官とか内官とかいう哲学上の常識観念は、相当限定の困難なものだが、少くとも外官が常識的に云っても肉体上明らかな定位を持っているのに較べれば、内官の方は、決してそんなに容易に肉体的器具と一致させることの出来ないように見える理由があるだろう。内官という観念がだから既に、哲学的な抽象概念を意図したものと云わねばならぬ。と云うのは内官に就いては、もはや感覚器官を意味するという規定が相応しくなくなるからである。そこで之を内感と呼んでもいいと考えられるようになって来るのである(この時内官に対比される外官も亦外感と書かれるに値して来る)。
 そう考えると、感官がやがて感覚を意味して来る理由も亦おのずから理解出来るだろう。感官は元来感覚――哲学では知覚心理学からの訂正にも拘らずこの言葉に意味を認めていいのだが――を受けとる器官だったのだから、感官は感覚ではない筈だったのだが、今云った理由によって、感官と感覚とが同じ観念になる理由が生じて来たのである。――さてそこで今の共通感官も亦やがて共通感覚にまで、その意味を転化して来るのである。センスやジンやサンスという外国語は事実この転化をよく示しているので、単に感覚を意味するだけでなくて、それが意味という言葉や核心という言葉をさえ意味するようになるのを注意すべきだ。
 だからアリストテレスの共通感官は、やがて共通感覚という意味を受けとるようになる。この時内感という文字の意味が初めて明瞭となるばかりではなく、その内感がやがて内部知覚という概念でも置き換えられ得る所以が明らかとなる。内感即ちやがて内部知覚は、之を少し心理学的内省によって分析して見れば、内部知覚と云った方が内容が限定されて問題がより具体的になるからだ。
 共通感覚という古典的な規定を内感又は内部知覚という主に近世哲学的な規定で尽せるかどうかには、疑問の余地があるだろうが、それは内感又は内部知覚という規定そのものに色々の決め方がある以上やむを得ないことだろう。だが共通感覚が何かしら内部的な感覚と考えられねばならぬという一般的な点だけが今大事なのであって、それがなければ、共通感覚がなぜ後世の常識の概念の先駆として之に連なるかが、全く理解出来ないだろう。之が、ただ言葉が共通だというだけなら全く偶然なことに過ぎなくて、今茲に問題にするに足りないわけだ。共通感覚が内部的だという点で以て初めて、アリストテレスの共通感官(コイネー・アイステーシス)は、近世の例えば常識学派の哲学による常識に、連絡しているのである。
 古典的なこの共通感官の観念と、近世的な常識の観念との間には、スコラ哲学の一般感官(之が即ち又内部的感覚の問題に帰着するのだが)が仲介の労を取っている。だが一足飛びに常識学派の場合に来た方が吾々の話しが簡潔になる。

   

 常識学派はイギリスのスコットランド学派のことに他ならないが、今特に問題になるのはトマス・リード(Th. Reid ― 1710―96)の場合に就いてである。普通彼はイギリス経験論(その代表的な源泉はジョン・ロック)に反対して立ったと考えられている。ロックが人間の心を白紙の如きものになぞらえたことから、イギリスに於ては、心理学では連想心理学が、認識論では各種の主観主義的懐疑論が、結果する。この前提と帰結とに反対することが、なる程リードの主な原因であったように見える。彼はシャフツベリ卿やハッチスンから来る審美的倫理的な疑うべからざる直覚の権威を、人間の心一般の問題にまで徹底させるべく、経験主義に対立したのだということに間違いはない。だがリードは決して大陸のラショナリストが直観主義者であった(例えばデカルト)ような意味で、反経験論的な直覚主義者であったのではない。彼が直覚主義に赴いたのは、却って正にイギリス風の経験主義の一つの必然的な帰結としてであって、単に所謂経験論的な経験(外的経験)が、内的経験にまでおきかえられた処の、云わば内的経験論乃至は内的経験主義に他ならないということを注意しておかなくてはならぬ。ここで相変らず大事な根拠として挙げられるものは、経験主義風の「事実」であって、ただその事実が内的な事実でなければ本当の事実とは考えられないというまでなのである。
 外部的経験は彼によれば、客観的な各人に共通なスタンダードを有つ処の認識を与えることが出来ぬ、とも考えられよう。もしだからそれだけが唯一の認識の源泉だとすると、ヒュームの場合のように、客観的な実在界の因果的連鎖をさえ疑わなければならなくなる。つまり外部的経験では事実は必ずしも事実としての経験の名に値いする権威を振えない事になる。この経験の権威を護るためにはだから、認識の根拠を内部的経験に、内部知覚に、直観に、求めなくてはならぬ。そこで人間の心は初めて、疑うことの出来ない事実にぶつかる、と云うのである。
 処がこの人間の心の内部で吾々がぶつかる、と云うのである。が事実である以上、もはやそれ以上の合理的な根拠を必要としないし、又必要としない筈のものでなくてはならぬ。なぜなら事実はそれ自身自らの根拠だからこそ事実の名に値いするわけなのだ。デカルトの表象(観念)が真である場合は、明晰にして判明だという合理的根拠が、この表象の唯一の直接的な根拠即ち直観となっていたが、リードに於てはそうした合理主義的根拠の代りに、経験主義的な事実が口を利くということになる。
 合理主義的ではなくて経験主義的なこの直覚は、この直接な内的事実は、だから事実というものに固有な如何にも事実に相応わしい経験的な所与性を持っている。と云うのは、この直覚内容の多様が、雑多な幾つかの内容物が、事実の名によって、単に経験的に、即ち合理論的な根拠なしに、「事実真理的」に結びつけられて与えられているのである。だからこの直観は決して単一な直観ではなくて、一定の具体的内容に分割され得る処の、その意味に於てはアーティキュレーション(分節・音述)を持った処の、テーゼ・命題でなくてはならぬのは尤もだろう。而もこの命題は事実というものの権威によって組み立てられている限り、之を合理的に分解することは不可能なのだから、その命題の内部の凝結力は絶対的でなくてはならぬ。即ちこの命題は固定した処の――まるで合理主義によるアプリオリのように――不動の命題、公理の性質を持たざるを得ない。云わばこの諸命題は人間が実際生活に於て下す一切の判断の元素や単位のようなもので、判断はいつも之をそのまま使う他はなく、苟くも之を分解しそれ以上の要素に還元することの出来ないものなのだ。それにも拘らず、この元素的な単位が、本当は雑合物なのだから、之は正に公理の値いするのである。
 さて公理とは自明なもののことである。それは直覚的に自明でなければならない筈だ。判断が使う人間的悟性=理解力はこうした直覚的明白さを持った公理を唯一の根拠とするわけであるが、客観的世界が存在することやそこに因果関係が行なわれるというような公理を、人間の悟性は本能的に承認するものなのだ、とリードは云うのである。処でリードによれば、こうした直覚の事実としての公理を本能的に承認することが常識の健全な職能であり、またこの公理の内容がこの健全なる人間悟性の、即ち常識の、夫々の内容となるのである。常識とはつまり審美的・倫理的・宗教的・又理論的な・出来上った一定不変の諸テーゼを、夫々公理として、即ち普遍的に通用するものとして承認し、認識をここから出発させようという、その態度と意識内容とのことだということになる。
 常識(健全な人間的悟性)のこうした権能は、専ら夫が外部的経験によるものではなくて内的経験のものだったという処から発生したわけであった。ここにアリストテレスの共通感官と、リード風の(一般にスコットランド学派の)共通感覚=常識との、言葉の上だけではない連絡があったのである。――云うまでもなくアリストテレスに於ては、共通感覚が共通するのは五官乃至五官が受け取る五つ乃至それ以上の知覚(感覚)の間に於てであった。之に反してリードの共通感覚=常識が共通するのは、社会における各個人の間に於てである。ここでは例えば各個人と云っても実は或る意味での平均人と云ったようなものが必要となって来る。共通という意味が、だから両者の間で一向共通でないではないかと云うかも知れない。
 だがリードの主著(Inquiry into the Human Mind on the Principles of Common Sense)が、人間の外部的諸感官の問題から出発していることは多少の注意に値する。と云うのは、五官に共通する感官によって、実は初めて人間の意識的統一が成り立つわけだが、この人間的・個人的・統一がなければ、社会に於ける個人間に共通するという常識なる統一も成り立たないのは云うまでもないし、それから又逆に、常識というものが初めて、他面に於て個人々々の意識の統一を齎すものだという事実も見逃してはならない、からである。一人の個人の意識の統一を齎すものは、一方個人心理的に云えばコイネー・アイステーシスであると共に、その同じ関係が、個人を社会心理的に見ると、所謂常識となるのである。個人意識の統一という点から見れば、だからアリストテレス的共通感官の概念と、リード的常識の概念との、実質的な連絡がハッキリするわけだ。
 常識のリード的概念が実はイギリス風の経験論をその踏台として有ち、経験論の直覚主義的な変容とも見ることが出来る所以はすでに述べた。シャフツベリ卿やハッチスンは云うまでもなくケンブリッジ・プラトニスト風に、多少ともプラトン的乃至はプロティノス的であって、その動機から云えば経験論の反対者として現われる外貌を有ってはいるが、それがリードによって、単に審美的乃至倫理的宗教的なものから、知的判断にまで一般化され拡大されるに及んで、遂に常識というそれ自身極めて経験的で日常的な概念にまで到達したのである。大陸風の合理主義とハッキリ対立する点に於て、この概念の経験論的本質は疑う余地はあるまい。一切の人間が、総平均人としての社会の各個人が、その日常の経験によって、何が美であり醜であり、何が善であり悪であり、何が真理であり虚偽であるかということを、理窟なしに、無条件に、直覚的本能的に、判定出来るということが、この常識の職能に他ならない。凡ての人が経験的に客観界の実在を信じるのが常識になっているが、リードは単にこの日常経験の根拠を、人間の心に予め横たわる内的直観に求めたに過ぎなかったのである。

   

 だが誰が考えても、このリード的な常識の観念には多くの弱点が含まれている。第一一定のテーゼの形をなしたドグマが公理として常識の内容になるという説明は極めて無理だと云わねばなるまい。と云うのは、そうすれば常識とは、その内容から云って(その全体の態度のことは後回しにして)、単に社会の各人に平均的に通用する客観性を持つだけではなく、それが何か人間の悟性=理解力に固有な、それと共に永久不変なものだと仮定されているわけになるからである。合理主義は人間の悟性なり理性なりの永久不変さを仮定するにしても、それは悟性や理性という一般的な活動態度に就いてそう仮定するまでであって、そうした悟性や理性によって規定される内容自身までが一定不変なものだとは主張しない。寧ろそうした悟性乃至理性の内容は、悟性乃至理性自身の判断力によって合理的に訂正され進歩せしめられると考えられる。処がリード的常識に於ては、常識(即ち悟性内容―悟性公理)は決して進歩すべきものではあり得ないので、謂わば常に変らず保守的なものでなくてはならない。リードの常識概念は、つまり、当時のイギリス的常識を、而も或る一定の社会層に行なわれた一部の常識を、固定化永久化し、又普遍化したものに過ぎないということが想像される。
 当時のイギリスは一方に於て政治的反動期であって、アイルランド其他の新教徒の新教復興運動を眼の前に見ているのであるが、他方に於てフランスの大革命のジャコバン党の活動に直面している。代表的な保守家である晩年のエドマンド・バーク(ホイッグの巨頭)がフランス・ブルジョアジーのこの新興形態に対して取った反啓蒙的な反動的態度は有名であるが、リードはバークの完全な同時代者であるばかりではない。バークはまた、そのシャフツベリ卿系の美学思想に立って、永久不変な美的感情の単位を想定した点で、スコットランド学派の闘士の一人に数えられている。スコットランド学派・常識学派は、イギリス風の経験論に立ちながら、その経験論自身に対立するように見える処のやや尚古的な思潮に立つものであって、イギリス・ブルジョアジーの発達の上に発生したイギリス的現実を尊重する一種独特な貴族主義的イデオロギーの上に立脚すると見ていいだろう。
 バークは一種の社会契約論者に数えられるが、ホッブスの社会契約説は云うまでもなく個人主義に、その意味では却って一種デモクラティックな原理に、立っているとさえ云うことが出来よう。現実家であり歴史的伝統を重視するバークも亦、凡ゆる形式の政治に於ていつも人民が支配者なのだと云っている。だから彼は一種のデモクラットと見えないでもない。フランス大革命に対する彼の激しい反感は、彼の自由主義から来る倫理的反発に由来している。だが彼は又旧ホイッグ党党是の無条件な信奉者であり、民衆的な衡平の反対者なのであった。だから云わば彼は極めてイギリス貴族風に保守的なデモクラットだったと云ってもいいかも知れない。――処でこのイデオロギーはリードの常識概念の内に、相当鮮かに反映されていはしないかと考えられる。彼によれば、常識というこの元来デモクラティックな観念が、直ちにそれ自身イギリス貴族風の固定感覚を意味して来て、旧来変らぬ保守的な永久法則の意味を有たされたわけであった。ここで常識として強調されたものは、要するに社会的には革命的行動(ジャコバン党の)に対して、観念的には尖鋭な懐疑主義(ヒュームの――之が進歩的であろうと反動的であろうと)に対して、即ちそうした実際上の又観念上の破壊的な又は突進的な動きに対して、守勢と保守との役割を負わされている処のものに他ならない。
 常識が一般に問題ではなくて、常識をそういう風に役立てることが問題だったのだから、この「常識」は、単に当時のイギリス風に経験的論なそしてイギリス風にデモクラティックな「常識」の反映であったばかりではなく、その内でも特殊に保守的な貴族層の常識によって承認を与えられた常識に過ぎなかった、と云わねばならぬ。リード達のスコットランド学派が、ケンブリッジ・プラトニスト達(カッドウォース其他)の後裔であることは無意味ではない。この常識によって想定される平均人とは、謂わば貴族を模範としなければならぬ一般民衆のことになるだろう。――リード的「常識」は単に、こうした幾層かの制限によって初めて限定され得る常識に過ぎなかったのである。
 この常識概念は、当時のイギリス貴族層の独特なイデオロギーを動機としているから、常識の有つ積極的な貴族的役割ばかりが注目されて、却って常識の消極的な云わば庶民的性質の方が殆んど完全に無視されて了っていることは、驚くに値しない。平民的常識が遂に常識に止まってそれ以上のものになれないという制限も、又常識はいつもお互いに撞着するものだという性質も、ここでは頭から問題にしていない。凡てはこの貴族的常識によって根本的に最高の形式で統一的に解決出来ると仮定する。だからこの哲学的な常識概念は、常識に対して今日の吾々が持っている常識的概念にさえ及ばない程、単純で一本調子なのである。之が第三の欠点である。――初めに云った常識の弁証的本質は、この結局は経験論的な、経験主義的な、即ち又現象主義的なイギリス風の仕方によって、完全に見落されて了っている。処が常識は今日の常識から云ってさえ、もう少しは込み入った矛盾を蔵しているものだった。

   

 相当純粋なブルジョア的常識に興味を有ったものは、却ってドイツ産の「世界市民」カントだったと云ってもいいだろう。事実彼は優れた常識家として有名であるし、彼の哲学の歴史上の大きさの一つも亦、「このブルジョア的常識」の哲学であった処にあるだろう。彼自身トマス・リードの例の常識説にも触れているが、その際すでに、実は当然なことではあるが、常識の例のお互いに撞着する本性に注意している。だがそれよりも大事な点はカントの人間理性乃至人間悟性と呼んだものが、取りも直さず啓蒙期ブルジョア・イデオロギーによる人間常識の能力のややドイツ化された観念に他ならなかったということである。カントの「純粋理性」批判は「ブルジョア的常識」の批判だったと見ることが出来る。なぜなら彼の問題は、人間悟性(理性)のどこまでが健全であり、どこから先が不健全な矛盾を暴露するか、にあったのであり、前者の場合(それが「分析論」だ)の健全な悟性が即ち常識のことに他ならず、後者の場合が之に反して「弁証法」と呼ばれたわけだからである。
 そう考えて見ると、感性の「先天的直観」や理性の先験的「範疇」や、その結合と見做される先験的「根本命題」(公理)やが、例えば因果律に就いても判るように、リードの常識による直観的肯定を、如何に現象学的(?)に分析したものであるかに気付くだろう。カントの所謂形式主義は、この点から見れば、リード的な貴族主義的内容常識の制限を破って、之をブルジョア的な常識にまで一般化する企てと一致させることが出来る。彼はヒュームの懐疑論に対して、常識学派風の常識の独断(公理・ドグマ)の代りに、常識の批判を置いた。
 カントによるブルジョア的常識の批判は、理性批判をするもの自身がその同じ理性だと云われているように、それ自身一種の(ドイツ的な)ブルジョア的常識に従っていると云わなくてはならぬ。だがブルジョア的常識のこのブルジョア常識による批判は、ブルジョア的常識の「自己批判」として、やがてブルジョア的常識の限界の極めてきわどい処にまで追って行っている。と云うのは、カントが自分で弁証法と呼んでいるものがそのきわどさを見せている当のものであって、例えば二律背反などは、正しく常識のもつお互いの間の撞着性を、論理学的に云い現わしたものに他ならない。ここで示されているものは、ブルジョア的常識が、良い意味でも悪い意味でも、弁証法的な一種の喰い違いを持ったものだという認識なのだ。――ヘーゲルにまで来て弁証法が学的思惟の方法として積極的に立ち現われれば、もはやこのブルジョア的常識――学的思惟に対する非科学的思考としての――は退場するものであって、そこには常識に対立した弁証法だけが残される。だがそうだからと云って、常識の一切の問題がそこで消えて了うのではない。現に、弁証法的な思考は、今日の吾々にとって、一種のもはやブルジョア的ではない処の常識となっており、又はならねばならないからである。
 常識の二律背反や弁証性は、単に二つの常識的命題が矛盾するという場合にはつきない。カントの見たのはそれだけであったが、本当は、その他に、常識そのものが、常識であるが故に真理だと考えられると共に、同時に又、常識であるが故に真理でないと考えられている、という二律背反こそ、常識の根本的な弁証性だったのである。そしてここには非常に複雑したものが匿されているのだ。
 この矛盾を解く手段として、もう一遍リード的常識の一つの性質を思い出して見なくてはならぬ。リードの常識は一定の独断的テーゼとして現われた根本命題(公理)だったから、その限りそれは実は個々の常識内容を意味している。一つ一つの常識的な主張を含んだ命題が、常識というものの実質だと考えられている。処が他方に於て、こうした個々の常識内容は人間の健全な理性に具わる云わば本能のような必然性によってヴァリディティーを与えられているのだったから、個々の常識内容の他に、この個々の常識内容を常識内容たらしめる処の形式が、そうした常識的態度が、常識のもう一つの契機でなくてはならぬ。故にここでは、さし当り、個々の常識内容と之を成り立たせている常識形式とが区別される。この二つのものは常識に於ける内容と形式とに相当する。だが併し、単に何にでもある内容と形式との関係だけではない。実際、吾々が今は常識的に考えている常識というものに就いて、この個々の常識(テーゼの形をもつ)という内容と、常識という形式とは、対立した或いは喰い違ってさえいる処の、一つの関係におかれているからである。この二つの区別をもっと展開して見よう。
 〔軍部〕が今日のような自信を有つことの出来なかった大戦直後の頃、或る私の知っている将校が私に云うのに、軍人に常識がないという非難があるので上部から常識涵養のために法律や経済の勉強を勧められているが、一体そういう知識が不足していることが軍人の非常識とか没常識とかいうことの意味なのだろうか、どんなに知識を所有しても非常識は非常識であって、そのままでは常識の涵養にならぬように思うが、と云うのであった。なる程法律や経済や政治という社会科学的な知識を有たなければ人間は必ず非常識になるには相違なく、又この知識を有てば常識の涵養の条件の一つが具わることも間違いではないが、或る一定の意味に於ては、そうした常識の獲得は必ずしも常識そのものを高めることにはならぬ。
 もし常識というものを個々の知識やその総和と考えるならば、知識の獲得はそれだけ常識内容の量的な増加になるわけだが、それによっては必ずしも人間的見識の水準が高まるとは限らない。常識という水準に人間が謂わば質的に高まり接近することは、量的な常識内容の増加とは一応独立なのである。知識と見識というものが直ちに一つにならぬことは、誰しも知っていることで、知識のただの総和が見識なのではない。
 尤も知識が豊富ならばおのずから見識も高まるというのが事実であり、そして知識というものをよく考えて見ると、特に社会科学的知識などに於て明らかであるように、それ自身一種の見識に基き、或いはそれ自身で一個の見識の意味をもつのだが、それにしても、ただの知識や知識の総和が見識とはならぬ。一寸考えると、知識の総和的平均が人間的見識のように見えるかも知れないが、併しこの平均ということが決して簡単なことではない。内容としての常識(個々の中庸の知識乃至その総和)と、水準としての常識(知識の総和平均と想像されるもの)との関係は、丁度、事象の個々の場合々々とその集団的・統計的な場合との関係に似ているが、この二つの場合の間に何かの実質的な連絡があることが明らかであるにも拘らず、二つは一応夫々独立した立場に立っている。一つの場合に就いて云われることは、そのままでは他の立場に之を移し植えることが出来ない。凡ての場合を単に平均するということは、実はそれだけでも既に、個別的なものの立場から平均的・水準的なものの立場を独立させることを意味している。丁度それと同じように、個々の知識内容としての常識から独立に、水準としての常識が区別されねばならぬ。
 水準としての常識・常識水準としての常識は、常識の内にでなければ見出せないような、常識の独自性を示している。常識が常識として、他のものに還元されずに問題にされ得るのは、だから内容としての常識ではなくてこの水準としての常識に就いてでしかない。内容的常識はよく考えて見ると実は本当の常識ではなかったので、つまり個々の知識やその総和に過ぎない。だから実は、之をそのまま平均しても、生じるものは常識(常識水準)ではなくて、要するに知識水準にしか過ぎないだろう。そうした知識水準は、組織的な知識に就いては学術的水準にまで発展するもので、更に総合的な知識に就いては文化水準にまで発展するものだろう。だがまだ夫は一向常識水準とはならぬ処のものだ。
 今一般に常識なるものを、こうした知識水準・学術水準・文化水準によって測定するとすれば、即ち常識なるものをそれ自身の標尺で量らずに、知識・学術・文化・等々の尺度に照して量るとすれば、それは常識なるものの有つ独自性を、常識なるものを知識・学術・文化・等々なるものから区別しているその当の独自性を、無視することになるわけだから、常識という概念は実は初めから否定されてかかっているに外ならない。その当然な結果としては、常識なるものが知識・学術・文化・等々なるものに還元されて了った上で問題にされるから、常識なるものはいつも知識・学術・文化・等々以下のものであり、従って、不完全な未熟な知識・学術・文化・等々にしか過ぎぬということにならざるを得ない。常識が自分自身の原理を有たないと仮定されているから、常識とは一般にそれ自身最も低いもののことを意味することになるわけで、常識以下のものは何物も存しないということが同語反覆的に自明なこととなる。
 常識を常識内容とする結果が之だが、之は常識の知識中心主義的乃至学術中心主義的な、アカデミシャン式な概念に他ならない。事実近頃のわが国のアカデミシャン達によれば、常識とは常にこうしたネガティヴなものでしかないので、例えば科学や芸術を卑俗化し通俗化したものが常識のことだと彼等は考えている。――だが一方、水準としての常識・常識水準に常識の本体があることを注目するならば、この常識の概念は完全に改められねばならぬだろう。之によって示されるものは、常識がそれ自身の尺度を有つことであり、それ自身一個の水準を意味するということであった。常識は独自な(知識水準其他とは独立した)ノルムを意味する。処でこのノルムに従えば、一切の他のものはこのノルムに一致する点に於て、常識それ自身の右に出ることの出来ないのは当然だ。だからここでは常識が最高であって、常識以上のものはあり得ないこととなるのである。
 常識が一方に於て常識であるが故に常に真理でないと考えられると共に、他方に於ては又却って常識であるが故に常に真理だと考えられるという、かの矛盾、二律背反は、或いは寧ろ常識のこのパラロギスムスは、こうした内容を有っていたのである。つまり、常識の独自性、常識固有の原理、を承認すれば、この弁証性が解けるのであった。

   

 常識が非難されるのは、それが独創性を欠いているということ、その意味で単に平均的な凡庸に止まっているということである。即ちこの際、一定の知識なら知識は、社会的な平均によって与えられた一定の常識水準を有っていて(常識水準のことではない)、それ以下の場合は問題外として、その水準以上に抜けないことが、常識というもののネガティヴな宿命だと云って非難される。世間では殆んど凡てそういう意味に従って、常識以下とか常識的とか常識以上とか云っている。そしてこの常識以上の知識水準に達したというのが独創性のことなのである。知識は云うまでもなく、いつも独創的でなくてはならぬ。独創的でない処の即ち常識的な知識(それが例の常識内容だが)は、いつも不完全な未熟な知識のことをしか意味しない。社会の平均人に比較して知識が劣っていないということは、無論知識のこの不完全さ未熟さの弁解にはならぬ。
 だが、知識が独創的であるとないとに拘らず、そうしたものとは一応独立に、常識水準の尺度が、云わば常識自身が、独創的であるかないかの問題さえが、存在する。水準としてのこの常識であっても、それが社会人の見識の平均値だという端初的性質は無論無視出来ない。処がそう見ている限り、知識の平均値としての常識的水準(常識内容)とこの常識水準とは別なものではないように見える。併し少し考えて見れば判ることだが、本当に単に平均値的だというだけでは、如何に常識という言葉に愛着を有つものでも、それが評価のノルムや標尺になれるとは考え得られないだろう。で、社会人の見識の平均値と見えながら実はそれ以上のものでなくてはならぬというのが、この常識水準なるものの内に見出される新しい矛盾なのだ。
 今この矛盾を解くためには、この平均値という観念の謎を解く必要がある。と云うのは、この平均値を正直に単純に社会に於ける各個人の量質的な総和平均のことだと考えていては之は解けない。それが平均値であるが故に(どういう根拠だか判らないが)おのずから標準的なものであり、又理想的なものだというのでなくてはならない。リード的常識の常識的態度は恰も、之を健全という標準又は理想で以て云い表わしたのであった(bon sens という常識概念も亦、こうした標準又は理想をひそかに想定している)。健全とは無論、病気と健康との総平均などではなくて、各人の健康状態の標準であり又理想のことなのである。それにも拘らず健全さは人間健康のノルマルな常態だと考えられる。この間の消息は、健康の保持(不健康疲労物質の新陳代謝と健康恢復)というものが伝えている。即ちたえず健康を引き上げ健康さを発達させることが、人間の平均的な従ってノルマルで通常の健康状態と考えられるわけである。
 常識も亦、いつも常識という活きた社会人の見識をば、引き上げ発達させることによって初めて自らを保持出来るのであり、そしてこの常識水準の保持がノルマルな常態なのであり、このノルマルな常態は更に、社会人の総平均値をいつも自分まで高めるべき動的イニシエーションとして現われるのである。そこで初めて、平均値的なものが、おのずからノルマル(ノルム的標尺的)なものとなるのである。で常識水準に於て平均値的なものと考えられたものは、実はただの平均値ではなくて、この平均値自身を常に高めつつ働く処のソリシテーション(促動)のことだったのである。
 だから常識水準とはその時その時に与えられた社会人の見識の平均値のことではなくて、却って、この平均値を高めるべき目標・理想線を意味している。この理想線の方眼紙上の位置は不定であり、或いはその位置を問題にすることは不可能なので、平均値のあるところ常にその近くにこの常識水準が力の場のような作用を持って横たわっているのである。本当の常識はそれ自身いつも低下し消散し死滅して行く或る活きものだが、これを常に刺戟して活きて行かせ保持発達させるものが、この常識水準という言葉の意味でなくてはならぬ。丁度真理とは真理を保持し高めるもののことであるように、常識とは常識を保持し高めるもののことだ。
 本当の常識・常識水準は、社会人の見識の単なる平均ではなく、又況して社会人の知識の中庸のことでもなかったから、所謂世論と云ったようなものとは可なりの距りを有っている。世論が大衆の政治的見識の平均値(実は多数者の共通した限りの政治的見識)と見做される限りそうである。世論は一般に、多数決の原理によって理解されている。だが多数の原理も亦、多数者の権利を肯定する根拠となると同様に之を否定する根拠ともなる。多数原理を正直に受け取る限り、多数者の権利を之から惹き出すためには、理論的にはコンベンションに、行動としては単なる多数の存在という以上の行為・暴力に、訴えなければならぬ。或る時代のギリシアの議会に於ては、声の最も高くて大きい者が多数を意味した。で世論というこの近世ブルジョアジーのデモクラティックな観念を、こうした哲学的困難から救うためには、世論に於ける多数決の問題を「常識水準」に於ける平均値に準じて考え直されなければならぬだろう(常識をリードの常識に結びつけて分析し得たように、世論―― Opinion, Meinung ――をギリシアの例のドクサに結びつけることも出来る)。
 だが実は常識水準そのものが、政治的な性質のものだということを注意しなければならぬ。吾々は既に之を単なる知識(やがて学術・文化)から区別された意味に於て見識と呼んで来たが、社会人の見識とは、単に個人の知的意志の統一を意味するばかりではなく、その各個人が社会に於て(物質的生産を媒介として)相互の関係に這入ることからくる社会を通った知的意志の統一を意味している。こうした社会的な政治的な統一の、社会的・政治的・平均値を引き上げ発展させるものが例の常識水準であった。だから常識水準はいつも政治的な根本特色を有っている。世論とは恐らく、このそれ自身政治的な常識の、特に狭義に於て政治的な場合のことだろう。
 更に又常識に連なるものは通俗化乃至大衆化であるが、之等も亦普通ルーズに考えられている処とは異って、平均値や多数決の問題によっては解決出来ぬものである。大衆化ということは、事物を多数者の平均値に近づけることではなくて、多数者たるべきものを事物にまで近づかしめる通路を提供することなのだが、そのためには人々は大衆にまで、多衆にまで、組織されねばならぬ。大衆化ということはだから大衆への組織ということを措いて正確な意味を持つことは出来ないだろう。今は常識水準の常識保持発展力がこの大衆組織化に相応するわけである。そして通俗化とは、こうした大衆化以外に正当な観念内容を有つものではない。もし持つとすればそれは例の悪い常識(知識水準に照された常識内容)を混入しているからに過ぎない。
 今まで述べて来たように、常識が一応端初的には社会人の多数の見識の平均値と関係があるにしても、又更に事実上の現象として一見した限りでは多数者の平均的な凡庸な見識のことにすぎぬにしても、この多数とか平均とかいうものが吟味を必要としたのであって、その結果、常識は、常態としての水準常識は、本当を云うと多数や平均そのものではなくて、却って之等のものを引き上げ押し上げデベロップさせる理想線のようなものであった。であるから、常識は結局に於て多数者のものでもなく平均値的なものでもなくて、却って或る種の少数者だけが事実上このノルムに接近(?)出来るのであり、又却ってこの平均値を抜け出る処にこそ恰も卓越した常識が横たわると考えられる、という事実が説明され得るのである。
 仮に本当に常識が平均値的なものに過ぎないならば、社会に於ける各個人の常識をもう一遍平均することは全く無意味な筈だが、処が実際は卓越した常識とはそうした平均値的常識を遙かに抜いているが故にこそ卓越しているのである。そして卓越した常識家(例のエドマンド・バークやカント更にはヘーゲルやマルクスまでも之に数えることが出来ようと思うが)は決して多数ではない。――尤も知識内容が例の内容的常識という常識的水準に止まっている意味での「常識家」は世の中に必ずしも少くはない。だが之とても決して、絶対的に多数ではないので、従って実際には平均値的な知識人よりも稍々高い知識水準を有っているかも知れぬ。それにティピカルに平均的な人間というものさえそう沢山はいないのが事実だ。

   

 かくて常識は平均値的なものや多数性から来る端初的な概念規定から、遂に解放される。この手続きを踏まずに、而も強いて常識に独自の原理を認めようとして、ブルジョア民主主義的な常識概念は、平均性や多数性を常識の固有原理らしいものと考えるが、それは常識の原則を確立する所以ではない。常識の固有原則は、このようなブルジョア民主主義的な(そしてそこでは社会人の抽象的な同一性・平等が機械論的に設定されている)常識概念からは決して出て来ない。
 こうした数量的な平均性や多数性の規定を脱して常識の規定はどこへ行くのかと云うと、それは最初に触れた日常性の原理と呼ばれてよいものに帰着するのである。尤も世間では俗物も超俗物も、日常性というものを、平均的な多数者である世間の俗物の、原則を失った生活状態のものだという風に考えているらしいが、日常性をそういう数量的な規定で片づけ得ると考えていることが、それ自身俗悪な常識的な知恵でしかない。日常性の原理とはそんなことからは独立に、実際性(Actuality)の原理のことだったのである(之はドイツ語では現実― Wirklichkeit ―と呼ばれる。act=wirken)。日常性の原理の分析そのものが又可なり面倒だと思うが、それに就いては私は屡々出来るだけ機会を利用して説明をして来た(拙著『現代哲学講話』〔本全集第三巻所収〕参照)。
 今最も簡単に実際性の原理を思い浮べるには、新聞なるものの日常的な機能を反省して見ればいいだろう。誰が一体新聞紙の機能の内に、アカデミーの研究室で行われるような機能を求めるものがあろう。又単なる研究家や学究や篤学者が新聞に書いたり雑誌を編集したり出来るとは誰も考えない。アカデミックな機能に対立する新聞のこのジャーナリスティックな機能こそ日常性の原理の最も手近かな証拠になる。ジャーナリズムとは、言葉通り、日々の実際生活に立脚した主義のことであり、だから日常性の原理に立つことなのである。云うまでもなく、之は学究的俗悪さの代表者であるアカデミック・フールが想像も及ばない原理かも知れぬ。
 そして最後に、クリティシズム(批判・批評)は他ならぬこのジャーナリズムの、日常性の原理に立った。一機能なのである。一般に事物の批判乃至批評はいつも、常識水準(この社会的政治的標尺)に準じて行われるのだ。で今にして云えば、常識とは社会上の単なる共通感覚ではなかったので、社会的な(従って歴史的になる)日常感覚のことだったのである。之は人間の歴史的な社会的な本能のようなもので、人間生活に於ける知能の一形態だったのである。
 だが重ねて云うが、この人間の日常感覚・常識(水準としての常識)は、単に社会的平均物でもなければ、又社会的共通物でもなかった、之はノルム・水準であった。だから之は反ノルムに対立しているのである、そしてこの反ノルム自身が皮肉にもノルムの名を僭称しているのである。常識のメフィスト自身が、そこでこのカイザーとゲーゲン・カイザーとの間に処して一働きしなければならない。常識水準は階級的対立に従って分裂対立する。知識―科学に階級性(階級的対立)があったように、そして、知識―科学の論理が階級的〔党派〕性の首尾一貫に他ならなかったように、常識にも亦階級性・階級的対立が、そして階級的〔党派〕性の首尾一貫が存する。そうして知識―科学について「論理」と呼ばれたものがここで「常識」水準と呼ばれた水準に相当するのであった。
 そこで今二つの常識水準が対立しているとして、この対立(いずれも水準としてのノルマリティーを主張して譲らない)はどこから導かれどう解決されるか。ここで例の常識内容と常識水準との関係が又々参考に値いする。今卓越した常識水準に較べて、低劣な方の常識水準が、往々より常識的で尤もらしい通念となるという事実を注意しよう。つまりこれは低劣な方の常識水準が、社会人の常識的な知識水準に一層適応したものを持ち勝ちだという証拠などである。すると水準のこの低い方は、例の常識内容と呼ばれた知識の常識的水準と混同した分量だけ、それだけ卓越した高い常識水準から劣るのだ、ということが判る。一体知識が完全に常識的水準(常識水準のことではない)に止まっている限り、少くとも、之に対比される常識水準の方にも卓越さを期待出来ないのは当然だが(尤も逆に知識が常識的水準を抜けてもそれだけでは常識水準の確立にはならなかったが)、低劣な常識水準は、いつもその前提として、常識的水準又はそれ以下の知識内容を条件にしている。これはつまり、知識の欠乏が非常識を結果する、という知れ切った関係に帰するものなのである。
 常識に今日ブルジョア的常識水準と無産者的常識水準とがあることは、それ自身日常経験として明らかであるばかりではなく、ジャーナリズムにブルジョア・ジャーナリズムとプロレタリア・ジャーナリズムとの対立がある事からも明らかだ。これは大衆化の概念に就いても、世論という概念に就いても実証される。処が例えばブルジョア的大衆化は何かと云えば、つまり卑俗化・俗流化のことでしかない。大衆化のブルジョア的概念が、それ以外の分析をなし得ないのであり、従って又元来大衆化という概念によって一般的に期待された目標に到着するには、解くべき困難があまりに手に負えないのである。今日大衆化というイデー(分析の結果を期待される観念)が無産者的にしか分析され得ないのは周知の事実である。
 世論も亦之と同じであって、このブルジョア民主主義的観念は、ブルジョア的概念としては全く行きづまって了っていると云わねばならぬ。世論は今日ブルジョア的プブリクムともいうべき社会の一隅からブスブス起こる私語であるか、それでなければ統制的官衙の石段を粛々として降って来る「声」かなのである。――常識はもはや今日地上のどこにも見当らぬ。常識は「地下室」などに押し込められて了って、常識の息の根は圧しつぶされて了いそうに見える。而もそうしたことが今日の日本主義などに於ける「常識」! なのだ。

 さて、私が分析によって得た結果は、水準としての常識・常識水準という規定なのである。この規定を必要に応じてハッキリさせることによって、常識なるもののもつ困難が、その矛盾・二律背反・弁証性が、解決され止揚されるだろうというのである。常識に普通な相反する二つのテーゼの雑居、常識そのものの否定と肯定、常識に於ける平均性と卓越さ、常識というノルムの階級的対立、等々がこの困難であった。
 だが、と読者の何人かはキット云うだろうと思う、今時常識の分析などをして、それが実際問題と何の関係があるのかと。併し常識そのものはとに角として、常識の独自的原理の問題に注目することは、今日、唯物論の基石の一つを据えることなのだ。なぜと云うに、常識に於て見出される日常性の原理・実際性の原理こそ、大衆の思想を、解釈哲学から、その意味での形而上学から、又その意味での観念論から、防衛するための原理に他ならなかったからである。





 
 啓蒙論
      
――現代に於ける啓蒙の意義と必要とに就いて



   

 啓蒙(Aufklärung)という観念は現在二つのものに区別されている。一つは文化史上に於ける啓蒙期の所謂「啓蒙」であり、一つは今日一般世間で啓蒙という日常語を以て云い表わす処の夫である。二つのものの間には無論根本的な連関があるのだが、併し歴史上の「啓蒙」は、一面に於て、この言葉のある限り永久に残るだろう処の普遍的な規定を有っていると共に、他面その時代の共通な特定の歴史的制限をも持っている。従って之は、現在の啓蒙と決して一つではありえない。でこの二つのものの間を、歴史的に且つ又理論的に媒介することが、さし当っての目的である。
 啓蒙という観念の正確な又は細かい内容はとに角として、少くとも今日世間の大多数の人達は、この言葉が大体何を意味するかを予め知っているだろうと思う。というのは、何人も必要のない処のものは容易に直覚出来にくいもので、そこから無用に煩雑な衒学的な分析も出て来ないとは限らないのだが、併し之とは反対に、必要のある処では、事物は最も速かに直覚的に理解されることが出来るものなのだ。でもし今日、啓蒙という言葉を日常的に理解出来ないという人があるとしたなら、その人は必ず今日啓蒙の必要を感じないで済ませる処の或る特別な事情の下にある人に相違ない。そういう人は、啓蒙に就いて全く利益を感じない人か、又は逆に積極的に之から損害を蒙るだろうと考えている人か、でなくてはならぬ。日本の昨今程に啓蒙というものの必要な時代は、明治になってからも全く久しぶりだと云わざるを得ない。啓蒙の必要を昨今切実に感じている人は、啓蒙という言葉の大体の意味を、すでに日常的に理解しているだろう。吾々は結局、この日常観念を土壌として、分析の結果この日常観念の土に還れば、これからの目的を果すことになる。
 今日わが国で啓蒙と訳されるドイツ語・アウフクレールングは恐らく英語のエンライトゥンメント――文明――からの訳ではないかと思う。処でエンライトゥンされアウフクレーレンされるものは、例えば闇とか妖雲とかいうものでなければなるまい。歴史上では、それは封建的な残存機構から自然生的に発生した不合理な(アウフクレールング自身から見て不合理な)観念・イデオロギーのことだったのである。無論ここで文明と云いアウフクレールングというのは、社会の経済的又技術的な機構の発達のことであるよりも、寧ろ主に社会に於ける文化的観念の発達を意味するのである。例えばドイツはイギリス特に又フランスに較べてこの文明乃至啓蒙が著しく後れていた。一種の啓蒙思潮の代表者でもあるカントは処が、フリートリヒ大王下のプロイセンを目して、啓蒙された時代ではないが啓蒙されつつある時代だと呼んでいる。イギリス・フランスに較べて、生産様式と文化意識とが著しく後れていた当時のドイツにしてからが、すでに「啓蒙されつつある」時代だったというのだが、このことはよく考えて見ると、この啓蒙されるべきものが当時の封建的残存機構から全く自然生的に生じた闇であり妖雲であったことを意味しなければなるまい。日本がプロイセンの憲法に則って憲法を制定したと云われる(今日迄の多くの権威ある法学者や歴史家の間ではこの点科学的常識になっている)のも亦、日本の極めて長い封建制から自然生的に生じた観念的残存物に対するアウフクレールングとしてだったと考えられる。
 之は大体、歴史上に於ける所謂「啓蒙」の系列にぞくするもののことだが、処が今日必要な啓蒙、従って今日の意味での啓蒙は、少くとも一つの根本的な条件に就いて、之とは全く違った新しい種類のものだ、という点を注目しなければならぬ。今日の啓蒙が打ち払うべき妖雲は、今日でも事実上濃厚に残っている日本の封建的基礎条件から、自然生的に生じた妖雲では決してない。この闇はこの日本的封建制の基礎条件は目的的に採用することによって、意識的に(「認識する」ことによって又国民としての「自覚」によって)導き入れられようとしている処の闇なのである。尤もいつの時代にも完全な闇はあり得ないので、闇とは実は薄明りのことなのだが、同じ薄明りでも、歴史上の所謂啓蒙期の「啓蒙」は、「啓蒙されつつある処の」黎明だったが、現今の薄明りは蒙昧化されつつある黄昏にも類するだろう。或は日明を蔽う触魔の(かげ)であるかも知れない。之だけ見ても今日の啓蒙の性能と機能とにおのずから新しい従来とは異ったものがなくてはならぬ理由が判る。まして今日の啓蒙は、単に封建制から自生的乃至意識的に導き出された観念に光をあてなければならぬばかりではなく、歴史上の所謂「啓蒙」を産んだ資本制自身に基く観念そのものにも亦、その強い光を当てねばならぬ。こうして今日の啓蒙の意義は、歴史上の所謂啓蒙に較べて、一方に於ては愈々規定が一般化されると同時に、他方に於ては愈々夫が限定されて来るのである。
 だが、仮に私が之まで云って来たことに反対でなくても、又啓蒙の今云った今日に於ける意義を一応認めなくはないにしても、なおこの問題に大して興味を持てない、という種類の識者が、日本のインテリゲンチャの内には決して尠くない。吾々はそういう事実を見逃せない。啓蒙も好いだろう、併し啓蒙よりも遙かに大切なものが吾々の手元には沢山ある。例えば研究・反省・自己不安・等々が何より吾々には大事で、抑々ひとを啓蒙するなどは後回わしにしたらばどうか、と云った具合に、この種のインテリはまず私達自身を「啓蒙」しようと企てるのである。――無論それもいいだろう。だがそうやって研究し反省し或いは自己不安することによって諸君は何を導き入れるか。例えば全体性・体験・ゲマインシャフト・などという「哲学的」に尤もらしい諸範疇の強調は、殆んど総てこうした謙譲な研究家や反省家や不安家自身の口から洩れたものに他ならないのだ。之は現代的神秘主義・現代的蒙昧主義の、衒学的な基礎工事に他ならないのである。抽象的に考えれば、なる程部分主義よりは全体主義が良いし、体験無視より体験尊重が正しいし、ゲゼルシャフトよりもゲマインシャフトの方が人間関係として勝っているに決っている。だがそれは形式的に云ってのことで、その内容に合理的な啓蒙されたものが這入るか、それとも神秘的な蒙昧が這入るかによって、百日の説法も屁一つとなるだろう。啓蒙活動の必要を感じない者には何等の自己啓蒙さえもない、というのが、今日吾々の置かれている事情なのである。

 さて歴史上の啓蒙期的啓蒙は、先ず第一に自由主義として現われ、又自由主義をその第一の規定とする。一体歴史上の啓蒙というのは、云わば文化史上の一時期乃至一範疇であって、決してすぐ様政治的範疇とは考えられないし、まして経済上の範疇ではあり得ない。従ってここに自由主義と云うのも、無論経済上の自由主義(自由契約・自由売買・自由競争)でもなければ、又元来を云うと政治上の自由主義(議会主義・立憲主義・デモクラシー)でもなくて、正に文化的自由主義とも呼ばれるべきものでなくてはならぬ。
 だがそれにも拘らず、この文化上の自由主義(その意味は段々説明して行く)は無論経済的乃至政治的自由主義から蒸溜されたものに他ならないのであって、事実ジョン・ロックに於ては、政治上の自由主義に基いて初めて、啓蒙期的啓蒙の哲学組織が創始されたと見られている。近世ブルジョア社会に於ける個人の経済上のリベラリズムがそれの物質的根柢であることは今更述べるまでもないが、ただこの経済上のリベラリズムに相当する自由の観念が、文化的な性質を受け取るためには、個人の企業や商行為や契約や労働やの自由の観念の代りに、同じ個人の自由であっても、多少とも文化的な側面にぞくする方の自由にまで、即ち、個人の悟性や意欲やの権威の確立にまで、蒸溜されねばならない。この時初めて、この自由は政治的自由の観念へも完全に移行することが出来る。処でロックはこの内でも又特にその文化的なモメントをば、悟性即ち、人間悟性(今の処之を理性と云ってもいい)の内に、求めようとするのである。で今や、個人の経済的・政治的・又更に文化的・自由は、人間悟性の権威の名の下に一所に集中されることになる。人間悟性の前には、人間悟性自身を他にして、何等の権威もない。教会・貴族・国王・其他もこのブルジョアの活きた悟性を前にして、何の絶対性をも誇り得ない。
 この悟性乃至理性は云うまでもなく、フランス啓蒙家達の信条となった処のもので、悟性乃至理性こそフランスの市民の自由を(平等や友愛と共に)保証する文化的権威に他ならなかった。処がドイツではカントが、この悟性乃至理性の権威をば、恰も悟性乃至理性自身の自由=自律の内に求めることを創案する。自由は茲で単なる経済的・政治的・自由として受け容れられずに、悟性乃至理性の自己自由として、正に文化的自由にまで蒸溜されて受け容れられる。自由主義はカントによって、このプロシア的世界市民の頭脳によって、文化的自由主義にまで「哲学化」される。政治的行動の自由の代りに、哲学的思弁の自由が、社会に於ける自由の代りに、観念に於ける自由が、この時以来ドイツ古典観念論の中心課題として導き入れられたのである。啓蒙はこうして第一に文化的自由主義に帰着する。
 カント自身の啓蒙の観念が、最もよくこの消息を物語っている。「啓蒙とは何かの問題に答える」という有名な文章で、彼は啓蒙に就いて定義を下してまず云っている。「啓蒙とは理性が自業自得で陥っている未丁年状態から解放されることだ」と。理性が自分自身成熟する自由を持っているに拘らず、なお未丁年状態に止まっているのは全く理性自身の責任だというのである。ドイツ資本主義の後れた発育が理性を未丁年状態に引き留めた責任者などとは決して考えられていない。次第に啓蒙されつつあるドイツはカントによると、フリートリヒ二世の文化的経綸のおかげであって、ドイツ統一によるドイツ資本制化のために、ドイツ諸公に対する大王にとって必要な進歩政策の結果だった、などとも考えられていない。そして特に注意すべきは、カントが啓蒙による理性の自由活動を専ら文化人の文化人に対する文化活動に限っていることだ。市民的職業や地位に就いて理性をどんなに自由に使っても、それは一向啓蒙活動でないばかりでなく、フリートリヒの治下に於ては一個のバーバリズムででもあるかのようにさえ考えているらしい。カントの啓蒙に於ける自由主義の契機が、いかに文化的自由主義に限られているかが、これで判るだろう。
 啓蒙に於ける自由主義の契機をこうやって蒸溜して見せた点では、カントは最も代表的な啓蒙思想家であると云ってもいいが、併し実はカントこそ却って、ドイツに於ける啓蒙批判家・啓蒙脱却者であった。一体彼の啓蒙に対して下した例の定義そのものが、ドイツは云うまでもなく、当時のヨーロッパ・イギリスに於ける事実上の啓蒙現象を云い表わしたものでは決してなかった。夫は寧ろ云わば啓蒙の理想を、啓蒙の永久に変らぬ普遍的な主義を、つかみ出そうとしたものに外ならない。カントの眼の前には有名な啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスゾーンがあるし、カントの先生にはドイツ啓蒙哲学の組織者クリスチャン・ヴォルフが控えている。そして世間にはあり余る程の「通俗哲学」が横行している。カントは実にこうした常識的な諸現象の批判をこそその使命としたのだった。
 イギリス啓蒙思想の哲学的(世界観的・論理的)根柢は無論経験論である。之に対してフランスの夫は他に対して最も特徴あるものを挙げれば唯物論(ブルジョア的形而上学的唯物論)であった。ドイツ啓蒙哲学=ヴォルフ学派の哲学の根柢は処で「悟性の哲学」だった。吾々は今やドイツ・アウフクレールングを少くともここまで遡って、その第二の規定をこの悟性の哲学に、その合理主義に見出すことが出来るだろう。と云うのは、歴史上の所謂啓蒙の第二の規定が、その矛盾律中心主義の哲学組織(ヴォルフで初めて伝統的なドイツ哲学の例の「体系」が出来上った)にあるというのだ。
 併しこの第二の規定は実は、ドイツ・アウフクレールングでは単に最も極端なドイツ式な形で現われたと云うまでで、広くフランスの唯物論にも共通な一つの論理機構に他ならない。矛盾律、その裏をかえせば同一律だが、この矛盾律を思考の最後の又は殆んど唯一の根拠とし、思想の枢軸とすることは、つまり機械論=機械主義の論理を採用することの宣言を意味する以外の何ものでもない。所謂経験論も、所謂フランス唯物論も、この機械論に於てドイツ啓蒙的合理主義と全く一つなのである。だからこの三つのものは、夫が経験論であるにも拘らず、又唯物論であるに拘らず、それから又合理主義であるにも拘らず、斉しく形而上学的と呼ばれる理由を有っているのである。結局、啓蒙のこの第二の規定は、その形而上学としての特色をコンデンスして云い表わしたものに過ぎなかったのだ。

 そこで今二つの規定を与えたこの歴史上の所謂「啓蒙」と、現在に意味を有つ啓蒙との、連関が次の問題だが、それには前者から後者への必然的な歴史の動きを見ればよいわけである。処が、啓蒙というこの文化的範疇は、それが文化的であって経済的範疇でも政治的範疇でもなかっただけに、そうした範疇を実際に際して用いる必要を感じなかったドイツ古典哲学の内を特に選んで、発育と変遷と脱化とを経なければならぬ理由があったのである。すでにその批判を通して啓蒙を脱却しようと企てた最初の思想家はカントだったと云ったが、恰もその消息が、原則的な形としては、カントの理性批判=弁証法の見解となって現われる。
 カントの弁証法(それは理性の使用法の誤りから起る理性の各種の矛盾に就いての理論を意味する)は、彼の哲学組織に於て外見上消極的な否定的な役割をしか果していないが、それがフィヒテ・シェリングを通じて、ヘーゲルになると、論理そのものの根本的な積極的な本性に帰せられる処にまで展開される。夫をここで改めて述べる必要はないだろう。今ただ大切な点は、カントに於てやや曖昧であった悟性と理性との区別又は対立が、ヘーゲルに至って初めてハッキリしたということだ。ヘーゲルはカントの理性を、まだ依然として悟性の段階に止まるものと見て、之を形而上学乃至機械論の代表者と見立て、之に本当の理性のディアレクティクを対立させたが、恰も之は、カントが批判し脱却しようと力めた啓蒙主義の特有な合理主義・矛盾律中心主義に対する判然とした批判を意味している。即ち歴史上の所謂啓蒙の第二規定の方は、ヘーゲルに至って、初めて徹底的に止揚されたわけだ。
 論理的な機構だけを見ている限りこの結果のもつ具体的な意義は判りにくいが、実際はこの結果は、歴史に関する認識について所謂アウフクレールングが免れ得ない不吉な宿命と関係があるのである。少くともドイツ・アウフクレールングはその悟性の立脚点からして歴史の観念に注意を払うことの尠ないのが特徴をなしている。カントはドイツ風の歴史哲学の先駆者の一人であり、又宇宙進化論の創設者でさえあるが、それにも拘らずその歴史観即ち又社会観は、歴史に独特な所謂非合理性(普通そう呼ばれるが之は信用出来ない言葉だ)の意義を十分認めることが出来なかった。ヘーゲルによると、之は悟性の形而上学の立場に立つからだ、ということに帰着するのである。だから理性の弁証法の立場に立つヘーゲルは、全く歴史的だということになる。
 処が人も知る通り、ヘーゲルの歴史観自身が又、所謂歴史の非合理性の認識に於て根本的な致命的欠陥を暴露する。それはやや本筋を離れた横合いから、後期のシェリングによって指摘されたが、つまりヘーゲルの理性の弁証法による歴史、理念の発展が現実の歴史の必然性だという思想は、結局歴史の合理主義的観念化に過ぎなかった。今や理性そのものが更に批判され脱却されねばならぬ。処がヘーゲルに於ける理性の特色は、何より先に自分自らを知るという理性の根源的な自律・自由にあった。之はカントが啓蒙に就いて要求した、例の第一の規定そのものを、即ち文化的自由の観念を、単に最も哲学的に整頓して云い表わしたものに過ぎない。だから、ヘーゲルの理性の逆立ちが立て直され、夫が物質(哲学的範疇としての物質)によって置きかえられる時、啓蒙期的啓蒙の例の第一規定から来る文化的自由主義の制限は、完全に踏み越えられることになる。そこに唯物論があったのである。
 で、歴史上の所謂「啓蒙」の二つの規定から来る啓蒙の二つの制限(悟性の哲学と理性の哲学)(即ち形而上学絶対的観念論)を踏み越えて、啓蒙というものの本当に自由なそして本当に合理的な意義を、現在、歴史的に惹き出すなら、その内容は結局、弁証法的唯物論だったということになる。――読者は或いは、私が初めから啓蒙という名目の外見の下にただ一般的な哲学史を辿って見せたに過ぎないのではないか、と云うかも知れない。併しそれはそうではないので、こうすることによってこそ初めて、今日必要な「啓蒙」というものの最も合理的で一般的な現実の観念を歴史的に導き出せるわけだ。
 例えば今日必要であろう処の啓蒙を、漫然と表象するならば、恐らくリベラリズム(而も文化活動でのリベラリズムだから文化的自由主義)などが最初に思い浮びはしないかと思う。併しその機能上の問題は別として、少くとも今日の啓蒙と啓蒙の概念との機構内容から云う限り、リベラリズムでは啓蒙の規定としては、今日すでに間に合わないのである。そのことは今説明したばかりの点である。カントが曾て啓蒙を説明したようなやり方――理性の自由な使用――では、吾々は今日自分自身をさえ啓蒙出来ない、そういうような時代に来ているというのである。一体昨今「理性」程蒙昧なものはなく、「自由」程不自由なものはない。或る民族の歴史を認識するには他の諸民族には一つも判らないような自覚=理性が必要であるらしいし、国民の自由を伸展防衛するためには国民自身が極度に自由を奪われねばならぬらしい。進歩的なフリートリヒ治下のプロイセンならば、理性を自由に使用することも出来たろう、反動下の今日では、理性を自由に使用すること自身が只では出来ないのだ。

 以上は啓蒙乃至啓蒙概念の内容機構に就いてであるが、その活動機能になると、即ち啓蒙は今日どういう活動形態を取るべきかということになると、又新しい問題に這入る。元来啓蒙活動は少くとも一種の大衆化・常識化・ジャーナリズム活動・批判活動なわけだから、この活動形態はごく大切な問題でなくてはならぬ。別の機会に譲ろう。

   二

 一、を補足するために、もう一遍之を反覆しよう。
 最近文壇ではロマンティシズムの叫び声が高い。之はリアリズムに対比してそう呼ばれているのである。処がこの言葉によって云い表わされる内容は科学的に云って、決してまだ判然としたものではない。人によっては、ドイツ・ロマンティシズムの諸規定を以て之の輪郭を規定しようとする。なる程文学史乃至は広く文化史の上に於てロマンティシズムと呼ばれた運動を最も特徴的に代表するものはドイツ・ロマンティクであり、ここに於ては独り文学に限らず広く哲学・経済学にまでその運動が貫かれている。そこで今日の日本の文学者達が考えたり云ったりしている所謂ロマンティシズムをドイツ・ロマンティシズムの諸規定で規定することは、この歴史上の特定な運動と、現在の或る一定の、併しその規定を今現に模索しつつある処の運動とを、直接に接合させ又は混同することであって、決して歴史的な見方ではあり得ない。と共に又、ロマンティシズムという言葉が少くとも一方に於て、或る特定の時期に於ける歴史的一運動の名であったという処から、この言葉を現在に就いて使う時の使い方を、もっと慎重にしなければならないだろう。
 之と略同じことは啓蒙(アウフクレールング)という観念に就いても云われるのである。一体啓蒙とは所謂啓蒙期(イギリス・ヨーロッパの十七八世紀)が有っていた一つの政治的又は文化的理想の名であって、従ってそれは特定の歴史的な定型を有った言葉なのである。現にアウフクレールングはクラシシズムとロマンティシズムとに対立した処の一つの文化理想であった。現今はロマンティシズムをリアリズムという一つの創作方法に対比するのだが、歴史上のロマンティシズムは何よりも先にクラシシズムに対立したということを忘れることは、その際危険である。処でこの歴史的ロマンティシズム、そして又同じく歴史的なクラシシズム、に対立するものが歴史的な「啓蒙」運動の特色をなしていた。――処が現在吾々が啓蒙と云う場合、必ずしもそうした啓蒙期的啓蒙を意味するのでないことは云うまでもない。現にアウフクレールングの時代は過ぎて文化史上ではクラシシズムやロマンティシズムがすぐその後に之に代わったと考えられる。そうした過ぎ去った意味では、啓蒙が今日吾々の社会の進歩的な課題になれないことは、云わなくても判っている。今日必要な啓蒙は、云うまでもなく例の歴史的な啓蒙期的「啓蒙」と全く別なものである筈はないが、それにも拘らず、之から区別された、もっと一般的な、或いはもっと個別な、啓蒙でなくてはならぬ。
 歴史上のロマンティシズムと雖も、例えば無限への憧憬とか自我の世界的拡大とかいう、すでにもはや歴史的一時期の特色にだけは限られない規定をそれから導き出せるし、同じくクラシシズムでも形相的な類型的な均斉と云ったような規定を抽出出来るが、それと同じに、啓蒙も亦、所謂啓蒙期的啓蒙から或る一般的なものとして抽出されることが出来る。それがすぐ様現下の必要な啓蒙の意味をなすとは限らないが、少くとも之を抜きにしては、之を手頼りにしなければ、必要な啓蒙問題の科学的な解決が望めないことは確かだ。
 福沢諭吉は日本が之まで産んだ所の最大な啓蒙家であったといってもいい。そして明治の前半は又文化史的に規定すれば云わば日本に於ける啓蒙期に相当するだろう。併しこの時期はヨーロッパに於てはすでに所謂啓蒙期が遠く過ぎ去った時代なのである。だから日本の啓蒙期という観念も、福沢翁が啓蒙家だったという意味も、すでに所謂「啓蒙」以上或いは以外の何物かを意味している。ではそれが、にも拘らずどういう理由で依然啓蒙の名に価したか。少くとも啓蒙期的啓蒙の有っている幾つかの主な規定がそこに反覆されているからである。では一体今日必要と思われる啓蒙は、どういう規定を持つのか。福沢式或はアウフクレールング的啓蒙とどこまで同じでどこから違うか、又違わねばならぬか、そういう問題には今まであまり世間では答えていないのではないかと思う。否一体啓蒙という運動乃至観念さえが、どういう意義によって今日必要であるかに就いて、あまり世間では多く説いていないように見受けられる。
 私はすでに常識というものを問題にして見たのであるが、常識はすでに今日の文壇などで多少は問題になっている。処がこの常識という観念も亦一方に於て或る歴史的な特定な意味を有っているので、所謂常識学派の「常識」を参照しないでは科学的に分析出来ないものなのだが、この常識学派なるもの自身が実は、もっと広く之を文化史的に云い表わせば、所謂アウフクレールング(特にイギリス啓蒙期)の哲学学派の一つに他ならない。だからこの関係から辿って行っても、常識が問題になる処、必ず啓蒙も亦問題にならなければならぬ。フランスの行動主義文学者達などはすべてこの啓蒙という問題に相当実質的な関心を寄せているのではないかと思う。――同じことは、もっと具体的にハッキリした場合を通じて、即ち唯物論の問題を通じて、今日のテーマとならざるを得ないように出来ている。すでにフランス唯物論はアウフクレールングの最も代表的な運動の形の一つであった。啓蒙活動というものを抜きにしてフランス唯物論を取り上げるならば、之ほど興味の乏しい意味の判り兼ねる思想はないかも知れない。この筋を辿って行けば、今日唯物論が問題になる処、必ず又啓蒙が問題にならなければならぬだろう。――併し何もこのような思想史的文化史的な連関を辿らなくても、今日の唯物論にとって啓蒙程重大な科学的使命はない、ということは、何より直接に感得出来る筈のものだと思う。唯物論は学者達のただの学説ではない、それは真理でなくてはならぬ。と云うのは、大衆が之を理解し身につけねばならぬ。科学乃至文化の大衆化・普及・教育・等々の問題は実は啓蒙問題に帰着するのである。
 尤も今日の日本のような文化的バーバリズムが横行する時代でないとすれば、或いは啓蒙という言葉も大して必要ではないかも知れない。処が今日では一切の文化がその合理性を、その自由を、その現実性(唯物論性)を、失わせられようとしている。処で後に見るように、この合理性や自由や唯物論性こそ、啓蒙なるものの特徴の内に横たわらねばならぬものだった。

 私は啓蒙の問題を多少詳細に考えて見たいと思っているのだが、夫は別に機会を得た上でなくては出来ぬ。今はただごく簡単にこの問題のスケッチをするに止めよう。
 所謂啓蒙期に於ける啓蒙活動は、オランダとイングランドとから起きたと考えられる。尤もその前駆的段階はルネサンスと宗教改革との内に横たわっていたと云われるのであるが、本来の啓蒙期は十七世紀、特にイギリスのジョン・ロックに始まると見られる(実を云えばアウフクレールングの理想に含まれる観念の内にはフランシス・ベーコンにまで遡るものを見出すのだが)。ロックの所謂政治的リベラリズム、之はH・ラスキ等の表現を借りれば、経済的リベラリズムに基くものだが、この自由主義は云うまでもなく個人の行動の自由に集中される。経済的・政治的・道徳的・自由、行動と意志との個人的自由が、ロックによって初めて強調されたことはよく知られている処である。之が当時の封建的残存物・絶対王権・カトリック教権の打倒を要求した近代ブルジョアジーの最も代表的な政治的イデオロギーであったことは云うまでもないが、今必要なのは特に、このイデオロギーがロックの手によって個人の知的自由・理性乃至悟性の自由・というものによって根柢を与えられたという点なのである。彼の『人間悟性論』は単に観念が経験から生み出されるという経験論を主張するだけではなく、同時に悟性こそが人間の、即ち又個人の、核心をなすものだという想定に立脚しているのである。彼はそこでこの悟性=理性の内に、個人の政治的自由の根拠を見出そうとする。なぜなら個人の悟性こそ自由でなければならないからだ。悟性の自由をおいて他に何等の権威も根本的に云うとあり得ないと考えられる。
 ロックに於て、一つに結びつけられているこの悟性(乃至理性)と個人的自由こそ、アウフクレールングのまず第一の規定となる。この規定に沿うて、イギリスの宗教哲学も亦、理神論(理性宗教)の形を取るし(そしてここから一種の唯物論者――トーランドなども出て来る)、やがてはヒュームの人間性論の課題も掲げられるのである。スコットランドの常識学派も亦、この悟性の健全さに認識の客観性の根拠を求めた。イギリスのモーラル・サイエンスがこの一貫した人間悟性の線に沿うて展開したことは有名である。フランスに於てはヴォルテールも亦理性の健全さを認識の根拠に数えている。ただし彼によっては個人的自由は却ってこの健全な人間理性によって否定されるべきものではあるのだが。
 ドイツの啓蒙期哲学に於ては、この悟性と自由との関係が特別な形で正面に押し出された。その最も代表的なものはカントに於ける啓蒙的な部分であって、一方に於て悟性と理性との区別が用意されることによって、この二つのものの外面的な制限と、同時に又この二つのものの内面的な自由(自律)とが、初めて体系的に浮き出して来る。啓蒙とはカントにとっては理性の自律に他ならない。彼はだから「啓蒙とは何ぞやに答える」の論文で(この問題はモーゼス・メンデルスゾーンも亦取り上げていたそうだが)、それは「人間が自業自得の未成年から卒業することだ」という有名な定義を下している。自業自得というのは理性的な人間が自分自身に就いて責任を有つこと、即ち彼の悟性が自由であることを、想定して初めて意味のあることだ。カントは人間が自分自身の悟性を言論に於て又文章に於て公的に自由に駆使する企て、そうした決心と勇気とがアウフクレールングだと云っている。
 だがこの悟性乃至理性とそれの自由乃至自律とが、それだけでアウフクレールングの規定として決して充分でないことは、一方理性が単に世界を解釈する精神となったり、他方自由が意志の自由や人間の神に対比しての宗教的自由などになって行く経過を注意すればすぐ判ることで、一方アウフクレールングの悟性乃至理性はあくまで一種の合理主義のものでなければならず、他方アウフクレールングの自由はあくまで政治的自由であることを失ってはならぬ。でここからアウフクレールングの二つの規定が更に導き出される。一つは合理主義、も一つは政治的変革の理想。
 啓蒙期的合理主義はドイツ・アウフクレールングの特徴をなしている。その代表的なものはクリスチャン・ヴォルフであるが、彼はライプニツの思想の一半である所謂合理主義を徹底し、そして又之を合理化した。と云うのは、ヴォルフは、一方に於てはライプニツの事実真理の問題(それが歴史の問題の原理として役立つ)を殆んど無視して、その永久真理の問題を哲学の中心に齎らしたと共に、他方に於て、こうした永久真理的哲学を組織立てて学校式に整備した点に於て、之を合理化したのであった。――フランス啓蒙運動の代表者ヴォルテールは「歴史哲学」という言葉を造った人だとも云われている通り、ヘルダーからカントに至る、そして更に唯物史観にさえ至る種類の科学的歴史観の先駆者の一人であるが、ヴォルフに於ては歴史の問題は歴史の問題として殆んど全く忘れられる。彼は形式論理学的矛盾律(夫は同時に同一律をも意味する)を唯一のオルガノンとする処の機械論(即ち形式論理主義的悟性主義)を徹底するのである。
 機械論の徹底は決してヴォルフ乃至ドイツ・アウフクレールングだけの特色ではない。それは広く啓蒙期イギリス・ヨーロッパの国際的な論理であって、この論理に実質的な地盤を提供した代表者はニュートンであった。なる程彼の立場はライプニツの場合と同じく、デカルトの機械論に対比して云えばダイナミズムであってただの機械論ではない。そのことは、彼の微分の観念が之を物語っている。にも拘らず、広義のメヘヤニスムスを脱していない。ニュートンは当時の国際的な技術水準を理論的に体現した人物であって、当時の主としてイングランドの生産力の学者的表現に他ならないのだが、ニュートンに対する関心は、広くフランス啓蒙家達に共通なものであった。例えばフォントネル、モペルテュイ、ヴォルテール、等がそうだが、この点無論ドイツ啓蒙家と雖も変りがない。オイラー、ランベルト、カント等が如何に問題の多くをニュートンに負うているかを注目すれば足りるだろう。カントが第一批判で問題にした半ばの課題は、ニュートン物理学の客観性を哲学的に解明し又批判することであった。カントになればニュートンの批判なのであるから、それだけ機械論(=形式論理)の批判を含むわけだが(ニュートン批判はゲーテやヘーゲルになって著しくなる)、従ってそれだけニュートン主義はアウフクレールングの特色を示すことになる。この啓蒙的合理主義はヴォルフの無矛盾律原理に於て典型的に現われる。
 処でヴォルフは、この啓蒙哲学を初めて体系的に講壇的に整備した点に於ても、有名な合理主義者であった。彼によって或いは少なくとも彼の学派によって、今日のドイツ講壇哲学の用語と通念の多くが確定されたのであり、云うまでもなくカントは直接にヴォルフ哲学からその用語と問題との示唆を得ている(例えばオントロギーという言葉はヴォルフによって決定されたのだし、フェノメノロギーという言葉はランベルトの認識論に於て初めて使われたように思われる。ランベルトはヴォルフ学派の有力者である)。
 併し啓蒙哲学がこうして講壇哲学として整備されたということは、何か喰い違っているように見えるかも知れないが、実はこの科学的厳密さはアウフクレールングの哲学に於てはヴォルフ学派を殆んど唯一の例外とするのである。ただそれが例外的に厳密科学的な思想体系であったに拘らず、恐らくドイツ的に後れた生産機構のおかげで従って政治的自由や理性乃至悟性の政治的実践への活用から絶縁して専ら講壇化された結果であろう、ヴォルフの厳密哲学は遂に折衷哲学を出なかった。その結果、ドイツではこの哲学が悪く通俗化されて所謂「通俗哲学」を産むに至ったのである。ここにドイツ啓蒙主義の俗悪な一面が露出したと云わざるを得ない。併し例えばフランス啓蒙主義に於ては、一方に於てこの運動の国際的連帯(丁度フランスの諸革命がそうだったように)にも拘らず、同時に国語乃至俗語の自由な駆使によって言葉通り啓蒙的な役割が果されていることを忘れてはならぬ。多くのフランス啓蒙家(その内には沢山の唯物論者や又所謂フランス・イデオローグをも含む)は単に哲学的な著述家であるばかりではなく、文学的・演劇的・作家であり批評家・評論家であった。彼等は決して折衷家ではなかったにも拘らず、云わばエンサイクロペディストだったのである。当時のフランスは評論雑誌と書斎とサロンとの時代であった。フランスの所謂「アンシークロペディー」と(なら)んで、之を改版した模造百科辞典が少なからず造られた時代であったのである。
 さて最後に、啓蒙主義の自由の規定から来る社会変革の問題が残っている。云うまでもなくフランスに於ては啓蒙運動のこの中心的な目的は一応立派に実現された。否、本当をいうと、フランス的啓蒙主義の自由の観念は、それは平等や友愛と並ぶが、フランス革命のイデオロギーが啓蒙主義の思想体系に織り込まれたものに他ならなかった。フランスの啓蒙主義は全く政治的な実質を具えていたと云わねばならぬ。之に反してドイツ・アウフクレールングは、一般に、人間を理性によって教育する理想だと云われるように、単に文化的な文人的な理想にまで落される。ドイツの啓蒙主義は全く単なる文化史上の一エポックをしか意味しない。それは単に文化史上のクラシシズムやロマンティシズムの先行期に他ならぬ。カントはこの点を非常にハッキリと云い現わしている。啓蒙とは悟性の公共的な使用のことであって、悟性の私的使用のことではない。私的とここに云うのは、例えば官吏が官吏として命を奉じて行なうブルジョア市民的な世俗的行動のことであるが、啓蒙は之に反して専ら「公衆」即ち「読者層」を対手にして、その意味に於て公共的に文書を通じて、学者として振舞うことだというのである。ここにのみ人性進歩が齎らされるのであって、革命を通じてではなく「徐々に」変革が行なわれるようになるだろうと云うのである。カントは「啓蒙時代(啓蒙された時代ではなく啓蒙し行く時代)はフリートリヒの世紀」だと結んでいる。
 啓蒙として最も特色のあるのはフランスのものとドイツのものだが、その二つの間に之だけの相違がある。にも拘らず両者共通なものはその機械論(メカニズム)だということが、今まで云って来たことで結論されるだろうと思う。明らかに之は歴史の一時期としての啓蒙期に於ける啓蒙の特色であった。その後の世界の政治的文化的発展は、この啓蒙期的機械論を如何にして脱却するかの工夫だったとも云うことが出来るが、それがディアレクティーク(実は唯物論)にまで行かなければ脱却出来ないことは、歴史的にも論理的にも、今日では証明済みの事柄だろう。――で今日必要な啓蒙は、云わば弁証法的啓蒙でなければならぬだろう。弁証法によって初めて又、折衷や通俗哲学に堕さない科学的な文化総合の目的も、確実に保証され得るだろう。こうした文化総合のない処では、どのような啓蒙も大衆化も、まして政治的な活動も、根のない草と択ぶ処はあるまい。ここで初めて新しい時代のエンサイクロペディストというものの意味も内容を得るだろう。
 エンサイクロペディストと唯物論者とがフランス啓蒙期に於て一つであったという関係は、今日でも少しも変らないだろう。ただその唯物論が、機械論を脱却したという現在の論理学的条件が、今日の啓蒙の新しい内容を決定するのである。本当の合理性と自由とがここで初めて実際的な問題になれるのだ。

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