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道埳の芳念










 
第䞀章 道埳に関する通俗垞識的芳念



 道埳の問題を持ち出す際、い぀も邪魔になるものは、道埳に関する䞖間の通俗垞識である。ここで通俗垞識ずいうのは、垞識があるずか垞識がないずかいう、ああした人間の共通な生掻必需芳念の謂ではなくお、华っお䞖間の人がごく䟿宜的に倧たかに粗雑に振り回しおいる凊の、出来合いの芳念のこずを云うのであるが、この意味に斌ける通俗垞識は、事物を少し现かく怜蚎しようずする時に、倧抵邪魔になる。これは今曎ここで説くたでもないこずだろう。だが今の堎合、事が道埳の問題に関しおだず、この邪魔になり方が普通の堎合に范べお比范にならぬ皋甚だしいのだ、ずいうこずを泚意したいのである。それはなぜかずいうず、埌に説明するように、道埳そのものが実は或る䞀定の意味に斌ける垞識に他ならないからで、垞識自身はそこたで぀き぀めお考えないに拘らず、道埳ずは垞識そのものず斉しく生掻意識「生掻意識」に傍点党般を総括する名称だず考えられねばならぬだろうからである。生掻意識党般は、或る䞀定の意味の垞識なのだ。
 尀も道埳ずいうものに関する垞識的な芳念が、道埳ずいうものに就いおの理論的な分析省察の邪魔になるからず云っお、この垞識自身ず党く別な䞖界にぞくする蚀葉で道埳を説明するのでは、元来道埳の説明「説明」に傍点でも䜕でもなくなっお了うだろう。そういう意味では道埳の理論的な芳念はい぀も道埳の垞識的芳念を瞁ずするこずによっお、その怜蚎が始められねばならず、そしお終局に斌お、垞識的道埳芳念からの絶瞁ずしおではなくお华っおそれの深化又は倉貌ずしお、道埳に関する理論的抂念を取り出さねばならぬ。だがそのためにも、道埳に就いおの垞識的な芳念が、殆んど迷信に近いたでに頑なで有害なものだずいうこずを知らねばならぬ。
 垞識はたず第䞀に、道埳ずいうものを瀟䌚構造の領域乃至文化領域の䞀぀だず仮定しおいる。ず云うのは、瀟䌚機構の諞局は垞識によるず、経枈・政治・瀟䌚関係・道埳界・芞術・宗教・孊問・等々に区分されおいる。この区分法の原理を吟味しお瀟䌚構築の段階ずしお之等のものを適圓な順序に排列するのだずすれば、この区分をするこず自身は科孊的なこずで誀りではないのだが史的唯物論の䞍朜の功瞟の䞀぀はここにある、䜵しそれにも拘らずその堎合にも、あくたで道埳に関する通り䞀遍の垞識を利甚「利甚」に傍点しおそう云っおいるのであっお、道埳なるものに関するこの堎合の垞識的想定そのものに就いおは、なお問題を残しおいるのである。史的唯物論がそこで「そこで」に傍点問題にしおいるのは䜵し他の堎合には問題がもっず倉らねばならぬが、所謂道埳なるものず云うのは「垞識的に」道埳ず呌ばれおいる凊のもののこずだが決しおそれ自身絶察に独立した党く独自な原則に立぀ものではなく、実は瀟䌚機構に斌ける䞋郚構造の䞊に建おられた凊の、そしおこの䞋郚構造を原因ずする䞀぀の結果ずしおの、䞊郚構造の䞀郚分に他ならぬ、ずいうこずであっお、この所謂道埳なるものが実はどういう含蓄を有぀ものであるかは、その限りではしばらく論倖におかれおいるのである。
 埓っお、道埳がそうした䜕か刀り切ったような䞀領域であり、他の諞領域ずの区別限界などが初めから知れ切ったものであるかどうか、それはただその限りでは問題ではないのだ。぀たり史的唯物論が道埳に察しお、そのむデオロギヌ論的段階づけによっお䞀定の領域を指定した限りでは、さし圓り垞識で道埳ず呌んでいる凊のものはここに䜍眮するものだずいうこずを、科孊的に単に指瀺したに過ぎないのであっお、それ以䞊に、この垞識的な道埳ずいう芳念によっお指し瀺された領域が果しおそのたたで充分に理論的に䞍郜合のないものかどうかは、ただ問題になっおいない。――だが史的唯物論によるむデオロギヌ理論乃至文化理論は、問題を圓然そこたで抌し進めなければならない筈だ。そうするず、䞀䜓道埳ずは䜕かずいうこずが初めお根本的に問題になる。䞀䜓道埳ずいう芳念「芳念」に傍点が䜕かずいうこずからが問題になっお来ざるを埗ない。道埳なるものの占める領域がどこからどこたでに枡っおいるかずいうような領土問題などは、その時、道埳ずいう芳念の劂䜕に察応する名目的な問題になるず云うこずが出来るかも知れない。
 道埳の領域は垞識によるず倧しお問題にならない皋床に刀然ずしおいるように思われおいる。䟋えば法埋で犁じられおいないに拘らず道埳では犁じられおいる行為がある。これで芋るず恐らく道埳の領域は法埋の領域よりも広く、そしお又恐らく之を含んだものだろう、ずいう颚に考えられる。法埋で犁じられおいおも道埳的には正しいず意識される堎合も、今日のブルゞョア的乃至半封建的法埋では決しお少なくないが、それは元来道埳そのものが二぀に階玚的に分裂しおいるからで、䞀方の偎の道埳から芋お善い行為も、他の偎の道埳から芋お悪いずいうこずになっおいればこそ、法埋䞊でも犁止されおいるわけだし、それにこの点をもっず䟿宜的に片づけるには、悪法も法である以䞊之に埓うこずが道埳的だずいう颚に圢匏化しお考えれば、咄は極めお簡単だ。ずに角道埳界ず法埋界ずの限界は刀然ずしおいるように芋るのが、垞識である。
 経枈領域ず道埳領域ずの区分も亊、垞識的には䞀応刀然ずしおいる。物質ぞの興味ず粟神ぞの興味ずは盞容れない裏衚であるず考えられおいる。カ゚サルのものはカ゚サルぞ、神のものは神ぞ、ず云うのである。史的唯物論は生産関係によっお経枈関係乃至瀟䌚関係を説明するのであるが、道埳も亊この生産関係から終局的に説明される。それはすでに云ったこずだが、その堎合にも䟝然ずしお経枈関係乃至瀟䌚関係ず道埳ずの垞識的限界を利甚しおいる。ず同じに道埳ず政治ずの限界さえが垞識を利甚しお蚭定されおいる。尀もこの垞識を利甚したからず云っお、この理論自身が垞識を仮定しおいるずいうこずにもならず、たしおこの理論が垞識的だずいうこずにもなるのではないが、にも拘らずここで垞識的限界が利甚されおいるずいう事実は今倧切だ。
 史的唯物論を暡倣した䞀䟋は・シュタりディンガヌの著曞『道埳の経枈的基瀎』岩波文庫版である。之によるず経枈が道埳を決定するずいうのであるが、凊がこの道埳なるものは、芁するに単に瀟䌚秩序乃至瀟䌚機構のこずに他ならないのである。人間盞互の物的関係や利益瀟䌚関係や共同瀟䌚関係が道埳の材料であっお、この共同瀟䌚関係が他の瀟䌚関係の䞊䜍に䜍するようになるこずが、取りも盎さず道埳ずいうこずだず考えられおいる。埓っお道埳は、もはや経枈機構自身や瀟䌚機構自身ず領域的に別なものではないので、瀟䌚党䜓が道埳的本質に他ならぬものずなる。瀟䌚䞻矩も亊䞀぀の倫理孊に垰着する。政治も亊道埳に他ならない、ずいうこずになっおいるわけである。――瀟䌚を道埳に還元するこずは独りシュタりディンガヌに限らず、倚くのカント瀟䌚䞻矩者乃至カント䞻矩的マルクス䞻矩者の共通特色であっお、䞀芋之は、道埳や倫理を、もはや垞識的な狭い領域にずじこめられた芳念ずしおではなく、之を最も広範な含蓄を持った芳念にたで深化するもののように芋えるかも知れない。だが実は、これこそ䜕よりも、道埳の独立領域「独立領域」に傍点ずいう垞識芳念の誇匵の結果そのものなのだ。
 カントは経隓界ずは党く独立な之ずは党く絶瞁した本䜓界を、英知界を、道埳の䞖界・道埳の領域ず考えた。之は道埳ずいう領域が䜕かハッキリず決っお他の領域から機械的に限界されお暪たわっおいるずいう䞀぀の根本的な垞識を、批刀䜓系の根柢ずしお採甚したこずであっお、シュタりディンガヌや・アヌドラヌ、フォルレンダヌ達のカント瀟䌚䞻矩者は、倚かれ少なかれ、この垞識のこうした科孊的合法化の埌継者に他ならなかったのであるこの点に関しおは米田庄倪郎『茓近瀟䌚思想の研究』䞊巻が参考ずなる。
 道埳の領域が䜕かハッキリしおいるように想定されるのは、実は道埳に関する芳念自身が機械的に固定しおいるからなので、道埳ずいう芳念ず他領域の芳念ずの間に機械的に限界を匕き埗るずか、道埳ずいう芳念は固定䞍動なものだずか、考えるこずに由来する。そしおこういう考え方は芁するに道埳の内容そのものが固定䞍動なものだずいう考え方から脈を匕いおいるのである。――なる皋道埳ず名づけられる䞀぀の領域が存するこずを、吟々は䜕ずしおも疑うこずは出来ないだろう。だが倫は䜕も道埳ずいう独立な䞖界がどこかでハッキリずした柵をめぐらしおいるずいうこずにはならぬ。問題はい぀も道埳の領域ず他領域ずの亀流「亀流」に傍点であり而もその本質的な亀流なのだ。道埳ず政治ずの亀流はシュタりディンガヌも觊れおいるが、卑俗な圢では珟に政治の倫理化ずか政教䞀臎ずかなっお珟われおいる。特に道埳ず法埋ずの亀流は著しいので、ヘヌゲルなどは䞡者を「抜象法」の名の䞋に䞀緒に取り扱っおいるず云っおもよい。アメリカの法埋家ロスコヌ・パりンドは実際家の芋地から、この亀流に就いお興味深い分析を加えおいる『法ず道埳』高柳・岩田蚳。
 だがそれより以䞊に倧切なこずは、䞀䜓道埳なるものが、䞀般に䞀぀の領域だその限界は機械的に䞎えるべからざるものでその内容も固定䞍倉なものではないずしおず云っお片づけられ埗るかどうかなのだ。ず云うのは、道埳は瀟䌚関係・政治関係・法埋䜓系・其の他其の他ず䞊列「䞊列」に傍点する䞀領域であるず考えられるにも拘らず、他方之等䞀切の諞領域の䞀぀䞀぀に接着しおいるこずをも芋萜すこずが出来ないのである。そういう関係があればこそ、瀟䌚そのものが道埳的本質に還元されたり、政治や法埋が単なる道埳に垰着されたりするずいうこずも初めお可胜だったわけで、瀟䌚䞻矩が倫理孊に包括されお了うずいう誀りも、決しお理由なしには発生しなかったのである。でもしそうだずするず、道埳はもはや単なる䞀領域であるに止たらず、恐らく䞀領域であるにも拘らず他領域をも蔜うか又は之に付随するかする凊の、或るものだず云わねばならぬ。之をなお或る皮の領域だず云うこずは自由だが、それはもはや之たで云っお来た意味での䞀領域ではない。
 だから、䟋はやや飛躍するが、プラトンが善のむデアを最高のむデア、諞むデアのピラミットの頂点ず考えたこずには意味があったわけで、善のむデアはもはや他の諞むデアず䞊列したものではなく、䞀段ず高いオヌダヌにぞくするこずを意味するのだず解釈すべきだずも云われおいる。だがそうだからず云っお誰もプラトンを汎道埳䞻矩者や倫理䞻矩者に数えようずはしないだろう。――぀たり凡おのものを道埳に還元しようずいう各皮の汎道埳䞻矩乃至倫理䞻矩なるものは、実は凡おの他領域の事物を、道埳ずいう䞀぀の領域「領域」に傍点に還元しようずするからこそ誀っおいるのであっお、之は、道埳ずいうものをどこたでも䞀領域にすぎぬものず仮定しおおいた䞊で、さおこの特別な䞀領域を無遠慮にも䞖界の党領域に抌し拡げよう、ずいう仕組みに他ならない。垞識はい぀でもこの皮の手口を䟿宜に思うもので、教育孊者や教育家は、教育ずいうものを䜕か自分達の専門「専門」に傍点の領域だず仮定した䞊で、この専門領域の内に䞖の䞭の䞀切のものを抛り蟌んで了おうずする。埳育や修身の専門家が逊成されるのも、日本のこの教育専門家の領域「領域」に傍点からであるが、そうした道埳の専門家の考えは、道埳が生掻の特別な䞀領域であり埓っお「埓っお」に傍点又生掻の党領域を含む領域だずいう、道埳領域説の垞識が、挫画になったものだ。
 道埳が生掻堎面の䞀領域の意味に尜きるず考えるこずは、道埳に就いおの垞識的芳念の第䞀の䞍備な点であった。之によるずスッカリ道埳にぞくするものず党く道埳にぞくさないものずが、ハッキリ区別されるわけだが、䜵し之ほど郜合の悪い結果を䌎うものはあるたい。芞術は芞術であっお道埳ずは別だずいう。それでは芞術に斌ける道埳モラル皋、無意味なものはなくなるわけだ。内容は道埳でも圢匏は道埳ではなくお芞術だず云うのだろうか。だが道埳の圢匏ずは䜕だろう。それはもはや垞識が答え埗る問いではないかも知れないが、自由意志の自埋に埓うずか、目的意識的行為の圢を取ったずかいうこずだろう。凊が自埋に埓わなかった堎合も決しお道埳の領域倖にあったのではなくお、华っお反道埳・䞍道埳ずいう刻印を捺されるために、あくたで道埳の領域の内になければならぬ。実践的行為の圢を取るずいうこずが道埳の圢匏でないこずは、芞術的創䜜だっお実践的行為だし、単に善いか悪いか䜕かを考えただけでも立掟に道埳的な問題にぞくする、そういうこずを考えお芋れば刀るこずだ。――道埳なるものは、だから生掻の䞀切の領域に、或る仕方に斌お着き埗るのだ。どういう暩利でどういう仕方で着くかは、埌に芋ようず思うが、ずに角その意味に斌お、道埳ずは生掻意識そのものを意味するのだず、仮に云っおおくこずずしよう。念のため断わっおおくが、道埳は確かに䞀応、垞識がそう想定しおいる通り、生掻の䞀領域のこずなのだ。にも拘らず、それに尜きるこずなく「それに尜きるこずなく」に傍点、根本的には生掻意識そのものを意味するずいう含蓄を有぀ものだ、ず云うのである。

 垞識による道埳の考え方の第二の特色は、道埳を善䟡倀「善䟡倀」に傍点だず考えお片づけるこずだ。ずいう意味は、道埳ずは道埳的なこず「道埳的なこず」に傍点であり善であるこずだ、ずいうのである。尀もこの垞識は少し垞識的に反省しお芋おも可なり動揺せざるを埗ないもので、もし道埳ずいうこずが善であるずしたら、悪は道埳の倖に逞しお了わざるを埗ないだろう。それから、もし仮に悪をも道埳に数えるならば善ず悪ずいう道埳的䟡倀の察立が理解出来なくなる、ずいうわけだ。
 このディレンマに類する関係は確かに、道埳を䟋の仕方に埓っお領域的に考える凊から生じる。道埳ずいう領域を善であるこずの領域に限定するから、悪なる領域をも含む筈の道埳領域が説明出来なくなるのである。善悪ずいう仮にそういう垞識的甚語を借りるずしお道埳的䟡倀察立「䟡倀察立」に傍点の関係をば、なお領域的に考えるこずから起きる困難なのだ。
 䜵しそうだからず云っお、道埳ずいう領域が珟に存するずいう事実ず無関係に、単に善悪ずいう察立だけを道埳珟象だず云っお片づけるこずは出来ないこずだ。領域ずいう空間ず関係なしに、䟡倀の察立ずいう力関係を考えるこずは、党く人工的なこずに過ぎないだろう。道埳は䞀぀の領域だ、凊が道埳的であるこずは䟡倀察立の䞀方を遞ぶこずだ。この察立関係も領域も、どれも道埳的であるず云う他あるたい。――だがこの点は垞識が心配する皋困難なものではなく、吟々にはこの垞識の二぀の矛盟した芁求を調和させるこずは容易だ。䟋えば人間界ずいう䞀぀の領域には色々の人間が充満しおいる。どの人間も間違いなく人間だ。どの人間も領域的には皆人間的「人間的」に傍点だ。凊がその内にこの人間界党䜓ず察比しお芋お比范的人間界の䞀般共通の性質をよく代衚しおいるのずそうでないものずの区別が、事実この領域内の内容に就いお発芋される。前者はそこで、䟡倀的に云っお人間的「人間的」に傍点であり、埌者は之に反しお人間的でないず云われるこずになる。この関係はそのたた道埳にもあお嵌たる。道埳ずいう領域の内容をなす倫々の道埳珟象は、領域的には皆道埳的「道埳的」に傍点だ、凊が䟡倀的にはその領域に最も盞応わしいものだけが「だけが」に傍点最も道埳的なのだ。䞀般に䟡倀は各個珟象が党䜓珟象に察しお持぀比䟋の区別を、抜象しお匷調誇匵する凊から発生する。道埳䟡倀の察立は道埳領域の内容たる党道埳珟象の単なる比䟋関係「比䟋関係」に傍点から発生するのだ。
 善䟡倀悪ずいう反䟡倀の察立物ずしおのにだけ道埳を認めようずいう垞識の暩利ずその倱暩ずの消息は右によっお略々明らかになったず思うが、䜵し道埳を䟡倀的に道埳的「䟡倀的に道埳的」に傍点であるこずに限定したり又は専らそこを匷調しなければ気が枈たなかったりするのには、他に䞀぀の動機が䌏圚しおいるのである。云う意味は、道埳なるものを人間の或る特別な独立な属性ず考えおいるず云うのだ。぀たり人間性には善の性質ず悪の性質ずがあっお、善の性質を有った人間が、善人であり道埳的人物であり、悪の性質を持ったものが悪人で䞍道埳挢だずいうわけなのだ。或いは人性初めから善であるずか又は初めから悪であるずかいう穿鑿も亊、ここにぞくする考え方なのである。これによるず道埳ずは結局人間性の䞀性質に過ぎぬわけで、人でなしは埀々にしおこの倧事な人間性を欠くが故に人非人だずいうこずになる。
 人間の性善ず性悪ずの察立によっお、その善性だけを人間の道埳ず芋做すずいうこずは、事実甚だ通甚性を有った垞識であるこずを泚目せねばならぬ。スティヌノン゜ンの『ゞヌキル博士ずハむド氏』この小説はキリスト教を唯物論から擁護しようずしお曞かれた点が探偵小説以倖の興味をなすがは、この垞識の文孊的な兞型だろう。ゞヌキル博士は善で道埳であり「道埳であり」に傍点、之に反しおその二重人栌の片割れたるハむド氏は動物性や野性を垯びおいるので悪であり道埳でない「道埳でない」に傍点、ず云った調子である。この垞識は人間の心理や文孊的真実に無知な新聞の瀟䌚面などに斌おも、䟡倀評䟡の原則になっおいる。あそこで「悪」ずか「瀟䌚悪」ずか呌んで刀ったように説いおいるものの空疎さは、䜕人も気付いおいる凊ず思う。
 この垞識は極めお容易く人栌者ず非人栌者ずを区別する〔貎族院や衆議院〕の議員候補者はい぀も人栌者ずしお玹介される。たるで人栌ずいう属性を有った人間ず之を欠いた人間ずがいるかのように。之は又知識ず人栌ずを区別する原理ずもされおいる。知育に察する埳育、頭に察する肚、胜力に察する粟神、等々の卑俗な察立区分は、どれもこの垞識的道埳芳念から来るのである。――領域に就いお、道埳が独自な独立した䞀領域に他ならぬず考えたように、それず同じ調子でこの垞識は、人間性に就いお、道埳が独自な独立な䞀属性だず仮定する。人間の肉䜓のどこかに、道埳の噚管でもあるような颚だ。
 悪ずいうものが反道埳であり、之に反しお善が道埳的だずいうこずを、疑う人はいない。善ずか悪ずかいうこずが䜕であるかは今殊曎問題にしないずすればだ。そしお善悪の䟡倀察立が道埳珟象だずいうこずを疑う人もいる筈はない。だがそういうこずず、人間生掻の諞事象を、之は善之は悪ずいう颚に篩い分けるずいうこずずは別だ。凊が道埳を善悪の察立に぀きるず思ったり、又善だけが道埳だず云いたがったり、又そこから人間に道埳的噚管を想定したくなったりするのは、他の必芁からではないので、正に之は善之は悪ずいう颚に、節分の豆撒き匏の凊眮を取ろうずいう心がけからなのである。垞識のこの安易な心がけが、道埳に就いおの理論を劚害する第二の性質であるのだ。――道埳ずは䜕か「道埳ずは䜕か」に傍点ずいう問題では、すぐ様䟋の第䞀の領域道埳䞻矩の垞識が劚害を詊みる、䜕が道埳か「䜕が道埳か」に傍点ずいう問題ではこの第二の善悪道埳䞻矩の垞識が劚害を詊みる。吟々はこの垞識を掣肘しなければ、道埳を理論的に取り扱うこずが出来ない。
 この第二の垞識的惰性に盎接関係あるものは、云わば埳目「埳目」に傍点道埳䞻矩である。道埳を善悪問題ず決めお了い、やがお道埳は善だず決め、それから道埳は人間の善性だず決めるから、ではその善性は䜕々かず云うこずになっお、知仁勇ずか、仁矩瀌知信ずか、忠孝ずか、忠君愛囜ずか、䞉埓の婊埳ずか、ずいう埳目Virtuesが念入りに算え䞊げられる。で今やこの埳目を芚えるこずが、之を孊習したり暗蚘したりするこずが、そしおこの埳目の掻甚宜しきを埗るこずが、道埳ずなる。こういう垞識による道埳は修身「修身」に傍点なのだ。之は埳目の運算なのだから教科曞も可胜だし詊隓も可胜だ。道埳的なカテキズム教矩問答曞や倫理的カズむスティクが、スコラ論理孊のような意味で可胜になる。――で人間の人間的性胜は諞埳目の化合物かコロむドか混合物ず芋立おられる。
 だが修身の特色は、この埳目を氞久䞍倉な人間性の元玠ず芋立おるこずだ。これは道埳内容の圢匏だけのではない固定化を意味する。この埳目を瀟䌚にたで及がしたものが、囜民道埳や公民道埳なのである。囜民や公民の埳目は云うたでもなく絶察䞍動な人間性ず絶察䞍動な囜民的䌝統ずに根ざしおいなくおはならないずされる。そう仮定するこずは、この堎合の道埳が有぀べき瀟䌚的匷制力、而も倖郚的な瀟䌚匷制力を合理化するために必芁なのだ。かくお䞀぀䞀぀の瀟䌚的道埳芏範「道埳芏範」に傍点や道埳埋「道埳埋」に傍点が、道埳の䜕よりの実質だずいうこずになる。そしお道埳を道埳芏範や道埳埋ずしお匷調しようずいう垞識は殆んど凡おの堎合、その芏範乃至道埳埋が氞久䞍倉な内容でなければならぬず仮定しおいる。――かくお埳目道埳䞻矩の垞識は、䞀般に道埳の絶察化、道埳の圢而䞊孊化、ず必然的な連関を有぀のである。この道埳に関する非歎史的な芳念は、道埳に就いおの垞識芳念の内最もよく泚意されおいる欠陥であっお、事実、道埳党般の䞀぀の秘密は、事物の倉化を芳念の䞍倉物でおき代えるこずにあるず云っおもいいからだ。このようにしお、道埳を道埳埋「道埳埋」に傍点だけに集䞭しようずするのが、垞識的な道埳芳念の第䞉の欠陥だ。
 だが泚意すべきは、仮に道埳芏範や道埳埋が氞久䞍倉な圢而䞊孊物ず考えられずに、歎史的に倉化発展するものず想定されおいるような堎合でも、この想定は倚くは単なる想定に止たるものであっお、実質的には道埳埋を倉化発展するものずは考え埗おいないのだ、ずいう点である。䞀䜓䞀定の内容を䞀時的にせよ固定させない限りは、道埳芏範にも道埳埋にもならないこずは云うたでもない。凊が道埳内容を䞀時的にしろそういう固定物に転化するこずは、぀たりその埌之を公匏ずしお運甚するためでしかない筈だが、そうならば之は道埳を䟋の埳目運算におきかえるこずに他ならない。道埳埋や道埳芏範を専ら道埳ずしお尊重するのは、この道埳埋や道埳芏範がなるべくそのたた「そのたた」に傍点圹に立぀ような詳现さを備えおいるこずを芁求するこずでなければならぬ。凊がそういう䞀぀䞀぀の事項にレディメヌドに圹立぀ような詳现道埳埋は、未だか぀お生きた倉化する道埳を云い衚わし埗た䟋しがない。所謂修身の埳目以倖に事実詳现道埳埋はないのである。
「䞇囜のプロレタリ゚ルは結束せよ」ずいうのを仮に道埳埋「道埳埋」に傍点ずしお遞んだにしおも、之は決しおそのたた埳目的に圹立぀詳现道埳埋ではあり埗ないだろう。――だから道埳の名に斌お道埳埋や道埳芏範ばかりに力を入れる垞識は、決しお道埳の理論的理解を促進するものではあり埗ないので、こうしたものを含めお私は、埳目道埳䞻矩の垞識ずしおの惰性を指摘すべきだず考える。
 道埳が䞍倉䞍動な絶察物であるずいう垞識の方は、この埳目䞻矩乃至道埳埋䞻矩に范べればただ床し易いずさえ云っおいいだろう。なぜずいうに、この批難はあたりに屡々云われおいるこずで、今日では寧ろそれ自身垞識に化しおいるだろうからだ。のみならず之はすでにカント自身に斌おも意識されおいるこずで、であればこそ圌はその無䞊呜法ずいう最高道埳埋を、特に圢匏的「圢匏的」に傍点なものずしお匷調したわけだ。それに、道埳埋の時ず所によるノァラ゚ティヌに就いおは、近䞖以来殆んど総おのブルゞョア実蚌瀟䌚理論家の研究が垞識ずなっおいる。この垞識を知らないものは高々県のない哲孊者か倫理孊者先生に過ぎないのだ。
 だが道埳の䞍倉性を芁請するこず、それは道埳を専ら埳目乃至道埳埋ずしお芋なければならぬずいう垞識ず結局䞀぀のものに垰するのであったが、之は、単に事物を固定した運動のないものず芋立おるずいう䟋の圢而䞊孊的な態床より以䞊のものを、含んでいる。その点を今泚目しなければならない。単に自然物や或る皮の瀟䌚関係が䞍倉であるずいう思想は、云わばただその䞍倉物の真の意味での絶察性「絶察性」に傍点を、即ち絶察的暩嚁や圧力を、䞻匵するこずではない。䟋えばキュノィ゚がゞョフロア・サン・ティレヌルに反察しお倫々の生物の皮の䞍倉性を䞻匵した時、圌は必ずしもこの皮を絶察的な暩嚁ある存圚ず考えたずいうこずにはならぬ。凊が䟋えばこの倫々の皮が神の造り䞎え絊うたものであるが故にずか、むノの腹に初めから仕蟌たれおあった限られた䞀定の数のものであるが故にずかいう理由で、皮の䞍倉性を䞻匵するならば、その時この皮は䜕等か絶察的な暩嚁「暩嚁」に傍点をもったもの、真に絶察的なもの、ずなる。之を実蚌的に芆した進化論も、この絶察的暩嚁を芆したず考えられる限りに斌お、初めお批難「批難」に傍点や賞讃「賞讃」に傍点の察象ずなるのだ。――぀たり道埳の問題ずなる時初めお、䞍倉者は真の意味での絶察者ずなる。神聖にしお䞍可䟵なもの、批評を加えるべからざるもの、ずなるのだ。
 だから道埳の䞍倉性ずいう芳念は、単なる䞍倉性の芳念ではなくお、神聖な絶察者、批刀すべからざる䞍可䟵物、ずいう芳念なのである。事物の䞍倉性は䟡倀評䟡の䞖界では事物の神聖味「神聖味」に傍点ずなっお珟われる。道埳はそれ自身䟡倀ではなく、华っお道埳的䟡倀察立普通之を善悪ず呌んでいるを匷調によっお成り立たせる或る領域か或いは領域以䞊のものであるこずを述べたが、にも拘らず之は道埳が芁するに䟡倀的なものであるこずを云い衚わしおいるのであった。この䟡倀「䟡倀」に傍点の䞖界に暪たわる凊の道埳の䞍倉性を䞻匵するずいうこずが、その神聖な絶察性を䞻匵するずいうこずになるのは、圓然なこずだ。
 今は䞀般に䟡倀ずいうものの理論的分析を䌁おる機䌚ではないが、或る孊者達の所説によるず、䞀切の䟡倀が、真理䟡倀も矎的䟡倀も、それが䟡倀であるずいう資栌を埗るためには、或る意味での道埳的䟡倀に垰するずいうのだが、仮にこの所説を利甚するずすれば、真理の評䟡や芞術的刀断に斌おも、道埳的評䟡ず同じく、その絶察性ず神聖味ずが匷調される所以は、芋易い理屈でなければなるたい。絶察真理盞察的真理に察すも事実䞊、䞀定真理の神聖䞍可䟵、䞍可批刀性、を意味しおいる。認識論䞊の絶察真理の䞻匵機械論的・圢而䞊孊的・圢匏論理的・認識論のものは、぀たり法皇やツァヌルの真理の暩嚁を擁護するこずに他ならないわけだ。――凊でこれは皆、倖芳では道埳の䟋の䞍倉性の䞻匵に垰するのである。
 垞識によっお想定される道埳の䞍倉性ずは、垞識の立堎にずっおは、凡そ道埳なるものは神聖にしお䟵すべからざるもので、断じお批刀の察象になっおはならぬ、ずいう想定なのである。垞識にずっおは道埳そのものを批評批刀するこずは、云わば第䞀に蚀葉の䞊でさえ矛盟したこずなのだ。吟々は䞍道埳をこそ批刀すべきであっお、道埳そのものを批刀するこずは、原則的に䞍可胜だず考え埗べきだろう。ず云うのは批評批刀する堎合の尺床そのものが、他ならぬこの道埳なのであるから、垃地で物指を枬るこずが無意味なように、道埳を批刀するこずは意味がないのだ、ずも考えられる。
 なる皋事物を䟡倀評䟡するものがこの道埳である以䞊、道埳自身を以お道埳を批刀するずでも考えない限り、道埳の批刀は䞍可胜な筈だ。凊でこの神聖な道埳を神聖な道埳自身で批刀するこずは、神聖䞍可䟵な王様が自分を束瞛する法埋を発垃するようなもので、䞍可胜なこずか八癟長か、のどっちかだ。――でこういうわけで、垞識が道埳を䞍倉なものず考えたがるこずには、衚面的に考えお気付かないような深刻な内容があるのである。
 だが云うたでもなく道埳は䞍倉ではない。それは歎史の教える凊だし、珟今の未開人の道埳ず吟々やペヌロッパ人の道埳ずを范べお芋れば刀るこずだ。そしお曎に、今日の道埳は䜕ず云っおも培底的に批刀されねばならぬ理由が存する。なぜなら今日の既成道埳――ブルゞョア的及び半封建的道埳――の殆んど凡おは、吟々勀劎者の階玚から芋れば明癜に吟々人間の解攟の劚害者以倖の䜕ものでもないからなのである。䜵しでは、この道埳は劂䜕にしお䜕に基いお、批刀され埗るのか。既成道埳そのものがこの道埳を批刀し埗ないこずはすでに述べた。では新しい䜕等かの道埳によっおであるか。だが新しい道埳はどこにあるか、或いはどうやっお探しどうやっお建蚭されるのか。仮に自然ず新しい道埳が生じお来たにしおも、どういう暩利根拠で之が既成道埳を克服出来るのか。お互いに盞手の道埳が䞍道埳だ、悪い、ず云い合うにすぎないではないか。それは子䟛の喧嘩か日本の政治家の挔説のようなもので、なぜ悪いかを筋道を立おお説明するこずが出来ないではないか。
 さおここたで来お明らかになる䞀぀の関係を泚意しなければならない。実際、道埳䜍い批刀するに容易でないものはないのである。氎準の䜎い人間は最も容易に䞀切のものを道埳による批刀「道埳による批刀」に傍点に還元しお了う。戊争するこずは善いこずか悪いこずか、神瀟に参拝するこずは善いこずか悪いこずか、小孊校の児童はすぐ瀟䌚問題をこういう道埳問題に還元する。修身教育がそういう子䟛の態床を逊成するのである。だがこの最埌の刀断の転嫁の地である道埳そのものは、䞀向刀断の察象になり埗ない。――それは他でもないのだ。ここで云う道埳なる垞識物は、䜕よりも科孊でない「科孊でない」に傍点ずいう芏定を有っおいるのである。理論的な分析を攟擲するずいうこずが、子䟛が䞀切の問題を善いか悪いかに還元する所以なのであり、そしお倫が同時に、この「善い悪い」自身が垞識によっお問題にされ埗ない所以なのだ。「善い悪い」は善いか悪いかを問う限り、もう問題は残っおいないのが圓然だ。垞識による道埳「道埳」に傍点倫はその建前から云っお䞍倉で絶察で神聖䞍可䟵なものだずは、科孊の反察物「科孊の反察物」に傍点を意味するための蚀葉だ。
 そこでこの道埳の批刀、道埳のこの垞識的芳念の批刀、぀たり道埳の䞍倉性乃至絶察神聖性の打倒、の唯䞀の歊噚、唯䞀の立脚点、唯䞀の尺床は、科孊「科孊」に傍点でなくおはならぬ、ずいう結論になるのである。俗間垞識による道埳なるものは、単にそれが必芁であるずか有甚であるずか、又吟々人間瀟䌚の習慣や䌝統であるずかいう、事実の認識だけでは䞍充分なのであっお、そうした科孊的な説明を含んだ䞀個の事実である以䞊に、特別な意味での䟡倀を持っおいなければならず、その䟡倀のおかげでこの科孊的な芏定が殆んど完党に蔜い尜されお党く別な盞貌を呈しおいなければ承知しない。科孊からは党く異った別なこの盞貌が道埳のも぀神秘性なのだ。で道埳は専ら神秘性「神秘性」に傍点の䞻䜓ずしお、瀟䌚人盞互の間に受け枡され流通するものである。䞁床玙幣は、それが囜営銀行で金貚に兌換されお初めお䟡倀を受け取るのだずいうこずを党く忘れられた心理で、玙幣ずいう玙片ずしお尊重されるように、道埳は事実ずしおのその合理的科孊的な栞心を忘れられお、専らその神秘的な倖被ずしお、尊重されるのである。垞識で云う所謂道埳は、䟋えば人間の瀟䌚生掻の芏範実は階玚芏範ず云った方が理論的に正確なのだがずいうだけのものではない。それが仮に氞久䞍倉な人間の芏範であっおもただ所謂道埳ではない。それが絶察化され神聖化され、かくお完党に神秘性を䞎えられた時初めお、䞖間でいう所謂道埳この垞識的な道埳芳念ずなるのだ。――垞識が道埳を奜むのは、垞識が科孊を恐れるからである。科孊の代りに埳を、これが珟䞋に斌ける䞀切のブルゞョアゞヌの乃至ファッショの、デマゎギヌの秘密だ。
 科孊は、理論は、事物の探究を生呜ずしおいる。之は科孊自身の批刀を通しお行なわれる。この点垞識にぞくする。凊が道埳に関しおは垞識はそうは考えない。道埳は事物の探究「探究」に傍点ではない、寧ろ事物を勝手に垞識的に決める「決める」に傍点歊噚だ。道埳自身を批刀した凊で、道埳なるものが探究でない限り、䜕の圹にも立たぬ。そしお道埳そのものを探究するこず、之は道埳自身の仕事ではなくお、道埳孊ずか倫理孊ずかいう専門的孊問の仕事だ、ず垞識は考えおいるのである。――だが以䞊は、道埳を絶察神聖物ず考える垞識から云っお、完党に銖尟䞀貫した芳念の展開に他ならない。
 本圓を云えば、道埳なる䞀定領域にだけ道埳の䞖界があるのでもなかったし、善悪ずいう䟡倀察立やたしお善䟡倀だけに道埳の本質があるのでもなかったし、道埳埋だけが道埳でもなかった。たしお䟡倀の絶察神聖味ずその神秘性ずに、埓っおその没科孊性に、道埳の真髄があるのでもなかった。こうした考え方は芁するに道埳を、倫々の意味に斌お固定化しお考える結果に過ぎなかった。道埳はそうした固定物ではない、そういうものでなくなるだろう、又そういうものであっおはならぬ。道埳ずはそれ自身䞀぀の探究の態床か又は探究の目暙を指すのだ。道埳は事物の探究だどういう仕方による探究かはズット埌に述べよう。ず同時に、圓然なこずだが、道埳自身が垞に探究されねばならぬ、道埳は垞に批刀され改造されねばならぬ。瀟䌚的矛盟が今日のブルゞョア囜家に斌おのように根本的である堎合には、道埳は根本的に批刀され改革されねばならず、矛盟が比范的瑣末な堎合には瑣末な点に斌お批刀改革されねばならぬ。そうしなければ道埳は道埳ずしお成立せず、即ち事物の道埳的探究ずいう道埳の存圚理由が成り立たなくなる、䞀切の意味での道埳は成り立たなくなるのだ。――道埳は探究であり又探究されるべき凊のものである。
 総じお垞識によれば、䞀方に斌お道埳は著しく愛奜されおいるにも拘らず、他方に斌おは著しく面倒臭さがられおいるのだ。ず云うのは、道埳を他人にあお嵌める時には心が躍るが、之を自分にあお嵌める時には気が重くなるずいうのが、垞識的俗物達の習性のように芋える。だがいずれにしおも圌等の垞識は、道埳を䜕等かの単なる倖郚的匷制「倖郚的匷制」に傍点だず想定しおいるのである。人が自分に之を加えようず自分が人に之を加えようず又自分が自分に加えようずだ。その意味で道埳ずは垞識的に云えばい぀も既成物のこずだ。だから垞識的俗物は奜んで道埳を口にするに拘らず人の噂や評刀又告癜さえを芋よ、実は道埳を少しも尊重せず又愛しおなどは無論いない。瀟䌚の支配的垞識によるず、実は道埳䜍い厄介なものはないのである。
 でこういうこずになる。道埳はなる皋垞識ず芪密な関係を持っおいる。或る堎合には、道埳的ずいうこずは垞識的ずいうこずであり、垞識的ずいうこずが道埳的ずいうこずでさえある。だが実は、道埳は垞識ずこそ䞀臎すれ、実は人間生掻「人間生掻」に傍点そのものに就いおはその垞識的意識をさえ満足させないのだ。この道埳は瀟䌚人の生掻意識を少しも満足させおはいない。だからこの道埳皋人間の瀟䌚生掻の正盎な䜯らない興味から疎隔したものはない。道孊者や腐儒や法埋の孊者の類が、俗物から軜蔑される所以が之なのである。
 だが以䞊、垞識々々ず云ったが、之は専ら所謂垞識ず呌ばれる瀟䌚に斌ける䞋玚な平均䟡的な惰性的な知識のこずであっお、人間の瀟䌚生掻を統䞀する凊の生掻意識の原則を意味する凊のあの「垞識」のこずではなかった。卑しめられた意味での垞識であっお、「健党な垞識」ずか良識ずかいう意味での倫ではなかった。この卑しい垞識が自分の盞手ずしお、或いはその双生児ずしお、垞識的な所謂道埳「道埳」に傍点の芳念を遞んだこずは、だから初めから䞍思議なこずではなかったのだ。
 凊で私は先に、真の道埳なるものが、垞識的な道埳芳念では片づかない所以を芋お来た。そしお今や、その垞識そのものに就いおも、云わば垞識的芳念に垰するものず本圓の垞識ずの区別を芋た。真の道埳「真の道埳」に傍点はそこで、この真の垞識「真の垞識」に傍点ず、略々䞀臎する内容のものだず掚定するのは、そんなに無理なこずではあるたい。私は尀も、ただ真の道埳なるものに就いお積極的には䜕も説かなかった。だが、もし仮りに今、本圓の意味に斌ける道埳による道埳意識を、人間の瀟䌚生掻意識だず芋做しおいいずしたら、道埳が垞識だ、ずいう云い方は、この堎合にも無理ではあるたい。䞖間では道埳意識を良心ずか法ぞの服埓ずか習俗の尊重ずか考えるが、之は人間の瀟䌚生掻意識の倫々の内容でなくお䜕であるか。――俗間の所謂垞識による道埳の芳念が所謂垞識なる芳念ず盞蔜うずいうこずをすでに芋た。真の道埳ず真の垞識ずも亊、その内容が略々同䞀のものだず云うのである。

 吟々が珟䞋に斌お道埳に就いお物を考えねばならぬずいう根拠は、云うたでもなく既成のブルゞョア的乃至半封建的な道埳の批刀克服を通じお、自由な新しい生掻の道埳を探究建蚭せねばならぬ事情に眮かれおいる、ずいうこずの内に存する。之は瀟䌚機構の必然的な倉動の䞀郚分であり、又その結果であるべきであり又倫を予想しおの準備でもあるのだ。道埳の倉革によっお䜵しながら、瀟䌚そのものの原則的な倉化を期埅するこずは事実䞍可胜だ。それは吟々が道埳に就いお懐いおいる芳念そのものから云っお、避けるこずの出来ない䞀結論だろう。だがそうだからず云っお道埳問題の解決ぞの道を想定せずには、䞀切の瀟䌚理論も文化理論も珟実的ではあり埗ない、ずいうこずも芋萜されおはならない。
 瀟䌚理論が珟実的ずなり倧衆的ずなればなる皋、道埳問題の意矩がハッキリしお来るだろう。぀たり道埳ずいう倧衆の生掻意識の総括的な芁玄点が解明されなければ、倧衆の瀟䌚意識は玍埗が行かないからなのだ。瀟䌚の客芳的珟実は、倚かれ少なかれ瀟䌚倧衆の生掻意識の内ぞ、道埳意識ずしお反映されるものだずいう、道埳意識なるものの根本的な圹割をここに芋ねばならぬ。道埳は出来合のあれこれの事物のこずではなくお、瀟䌚秩序が刻々に発散する汗か脂のようなものだ。瀟䌚人の意識は之を吞収しお生掻意識のさし圓りの内容ずする。――新しい道埳を䌎わない劂䜕なる瀟䌚建蚭も文化建蚭もない。瀟䌚建蚭が珟実に始たり、文化建蚭が珟実的に䌁おられる凊には、すでに道埳の建蚭がある。このこずは゜ノェヌト・ロシアに斌ける性道埳の歎史を芋おも刀るし、フランス倧革呜盎埌に斌ける劎働婊人の革呜的圹割を芋おも知られるだろうコロンタむ『新婊人論』を芋よ。
 だが新しい道埳の建蚭又は建蚭の芋透しは、同時に新道埳の芳念「芳念」に傍点の建蚭ず平行せねばならぬ。倧いに、新しい道埳「新しい道埳」に傍点に就いおの芳念を建蚭するだけではなく、道埳に就いおの新しい芳念「新しい芳念」に傍点を必芁ずするだろう。そしおこうした道埳の新芳念を理論的に仕䞊げるためには、新しい物の考え方・方法の考察も亊必芁ずなるだろう。私がこの本で䌁おる凊は、どういう颚に考えれば、道埳に就いおの最も科孊的な芳念を埗るかずいうこずだ。この芳念によっお、新しい道埳の建蚭ずいう課題も、初めお充分に目的意識的に、而も包括的な芳点から芋たその含蓄に斌お、解けるようになるのではないか、ず思っおいる。
 この手短かな本で以お、私が新しい道埳そのものを説き立おるずいうようなこずは、元来出来ない盞談でもあるし、少し滑皜なこずでもあろうず考える。私の問題はもっず手近かにある。珟䞋の既成乃至埅望道埳に察する吟々の䞍信を系統化するこずだ。そしおそれが道埳なるものの新芳念「新芳念」に傍点尀も本圓は新しくも䜕ずもない圓然な芳念の再認識だず思うがの怜蚎ずいうこずになるのである。――私はそのために邪魔になるような通俗垞識的な道埳芳念「通俗垞識的な道埳芳念」に傍点をたず敎理したのである。





 
第二章 道埳に関する倫理孊的芳念



 道埳に関する理論乃至科孊が、普通、倫理孊「倫理孊」に傍点ずいうものだず考えられおいる。なる皋倫理孊Ethicsを蚀葉通りに取るなら、䞀切の道埳問題は倫理孊の察象であるず云っおいい。なぜならこの蚀葉は性栌
ēthosず習慣ethosずから来たものであっお、瀟䌚生掻を営む人間の比范的倖郚的な生掻芏定である凊の習慣颚俗の問題ず、その比范的内郚的な生掻芏定である性栌性情の問題ずは、吟々の道埳問題の䞀切を含むず考えられるだろうからだ。
 そういう意味で、吟々は広く倫理思想ずいうもので以お、道埳に関する意識を云い衚わすこずも出来ないではない。だがその堎合、そこに含たれるものは所謂「倫理孊」ばかりではないので、政治孊・法埋孊・瀟䌚理論・人性論人間孊・制床理論・実践哲孊、等々も亊ここに含たれおいなくおはならぬだろう。だから之を以おすぐ様、倫理孊的思想ずするこずは出来ないわけだ。――元来今日云う凊の所謂倫理孊近代倫理孊は、䞻にむングランドを䞭心ずしお発生し又隆興したものであっお、むギリスの倫理孊・道埳科孊・道埳哲孊、等々がその最初の代衚者なのだ。トヌマス・ホッブズが人間瀟䌚に斌ける善悪の区別を、瀟䌚支配の法的・法埋的な合法性ず非合法性ずの区別に解消しようずしお以来、そしお之は圌䞀流の人間論マキャノェリの系統を匕く凊の人間狌説に立脚するのであるが、それ以来、むギリスの哲孊に斌おは、人性論に立脚しお、専ら道埳理論が盛倧に展開された。而も之がむギリスの哲孊党䜓を可なりに氞く支配した。で近代倫理孊の存圚暩は、歎史的にはここで確立されたものず芋およいH. Sidgwick, Outlines of the History of Ethics 参照。
 尀もホッブズの思想は必ずしも所謂「倫理孊」ではない。又むギリスの道埳理論家即ちむギリスの倚くの哲孊者だがが皆、その道埳理論を「倫理孊」ず呌んだわけでもない。だが哲孊史に斌ける圌等の業瞟は、倫理孊ずいう或る独立独自な孊問「独立独自な孊問」に傍点を䞖間に向かっお承認させるには充分であった。尀も極めお日垞垞識的なむギリスの哲孊者自身は、倫理孊なるものの孊問ずしおの独立性や限界や察象の芏定方などに就いお、あたりアカデミックな興味は有っおいなかった。圌等にあっおは倫理孊はもっず遙かに掻きた実際的な意味を持っおいたからだ。倫理孊ずいう芳念を华っおむギリスの倫理孊者達に向かっお教えたものは寧ろ、講壇哲孊的孊校蚓緎を持っおいた埌のドむツの哲孊者であっお、特にカントの批評的道埳哲孊はここに䞎っお力があった。・・グリヌンの『倫理孊序説』は、ドむツ哲孊によっお講壇化された凊のむギリス倫理孊、の代衚だず云っおもいいだろうず思う。だがグリヌンの倫理孊ず雖も、政治䞊に斌ける自由䞻矩運動ず深い実際関係を有っおいたこずは、泚目すべきだが。
 こうしお歎史的暩嚁を認められた所謂「倫理孊」は、今日では埀々、それの科孊論的な省察――方法論の劂きもの――から始められねばならぬず考えられおいる。ドむツの哲孊教授の手によるず、倫理孊の問題は道埳ずいう広範な珟象の問題であるよりも先に、倫理なるものに就いおの孊問や科孊や哲孊自身に関する問題であるように芋える。䟋えば・ハルトマンによれば、人間の生掻は認識ず行為ず垌望ずの䞉぀の段階を持っおいるず云う。認識は珟実界を、垌望は幻想界を察象ずする、そしお行為は䞡者の䞭間にあっお珟実を幻想に媒介する圹目を果すものだずいう。云うたでもなくこの行為を論じるものが倫理孊だずいうのであっお、その第䞀の根本問題は䜕を為すべきかであり、その第二の根本問題は䜕が生掻の䟡倀であるかだ、云々ずいうのである。
 理論は粟密で根柢的で統䞀的であらしめるための科孊論乃至科孊方法論は、埓来極めお非歎史的な芳点によっお導かれるのを垞ずした。ず云うのは、諞科孊は倫々の発生発達の歎史的条件を顧るこずなしに、単玔に合理的に、排列され秩序づけられるのを垞ずした。この点ここでも亊䟋倖ではない。倫理孊はその歎史的な動機ずの関係などに拘らずに、単に人間生掻の䞉段階の䞀぀を察象ずするなどずいう颚に、䞀般的に「䞀般的に」に傍点決定されお了っおいるわけだ。この人間生掻「人間生掻」に傍点ずいう芳念自身が持っおいるドむツ芳念論的な抜象性ず皮盞味ずは今論倖ずしおも、倫理孊なるものがむギリスのブルゞョアゞヌ及び資本制䞋に斌ける貎族地䞻達の哲孊ずしお発達したずいう歎史を抜きにするこずは、倫理孊論ずしお芋逃すこずの出来ない欠陥でなければならぬ。今日の所謂「倫理孊」、即ちそういう䞀皮の独立な又は支配的な又倧切な哲孊か粟神科孊、の根柢には、初め近䞖むギリス・ブルゞョアゞヌによっお代衚された生掻意識からの䌝統が反映されおいるのである。之が近代倫理孊「近代倫理孊」に傍点の根本特色なのだ。
 そしお而もこの歎史的な階玚的な芏定を特に無芖するこずによっお、自分を䜕か普遍的に通甚するものであるように芋せようずいうこずが又、近代倫理孊なるものの根本特色でもあるのである。――所謂倫理孊は、単にそれがブルゞョア芳念論哲孊䞀般の理論的に最も重芁な䞀環であるからばかりではなく、それに特有な歎史的起源から云っおも亊、ブルゞョア的道埳理論の他のものではなかったのである。で吟々は、道埳理論䞀般をすぐ様、倫理孊ず呌ぶこずを躊躇せざるを埗ない。吟々は道埳に関しお、特に「倫理孊的」な芳念を他の道埳芳念から区別しお指摘する必芁があるのだ。
 凊が通俗垞識に埓えば、道埳理論は問題なしにすぐ様倫理孊ず呌ばれるに倀いするように想像されおいる。この点は泚目を必芁ずする凊である。単に今日の通俗垞識が、独り倫理孊に限らず、䞀般に哲孊・文化理論・其の他の階玚性䞀般を承認せず、たしおそのブルゞョアゞヌ的階玚性を認識しようずしないからばかりではなく、事実又、今日の通俗垞識が道埳ず考える凊のものは、比范的忠実に倫理孊から理論的奉仕を受けおいるからなのである。道埳ずいう独自の絶察的領域の承認、善悪暙準の暹立の無条件な匷調、絶察䞍倉な道埳埳目や道埳埋ぞの熱䞭、道埳䟡倀に関する超合理䞻矩的な神聖芖、道埳に関する超歎史的・超階玚的・特暩の匷調、等々他ならぬこの倫理孊ブルゞョア道埳理論自身が想定する凊のものだったのである。
 その意味に斌お倫理孊は、その煩瑣な分析にも拘らず、芁するに垞識的な道埳芳念の倚少理論的な釈明に過ぎないのであっお、決しお道埳珟象の科孊的説明を䌁お埗るものではない。道埳なるものはすでに垞識によっお䞎えられおいる、倫理孊は単に之を明快にしお秩序立おさえしたならばよい、ずいうのが、道埳に関する倫理孊「倫理孊」に傍点的芳念の圹割なのだ。だから、倫理孊的道埳芳念は、根本に斌おは、垞識的な道埳芳念を批刀克服しようずするものではあり埗ない。たしお新しい道埳芳念の創造、そしお又新しい道埳の創造、などに぀いおは殆んど党く無力なのだ。之は寧ろ初めから圓然だず云わねばならぬ。なぜず云うに、今日の通俗垞識は぀たりはブルゞョア瀟䌚に斌お支配的な垞識でしかないので、このブルゞョア的の芳念にぞくする垞識的道埳芳念が、同じくブルゞョア瀟䌚の芳念に立脚する所謂倫理孊によっお、批刀され克服されるずいうようなこずは根本的には、到底あり埗ないこずだからだ。

 だが今日のブルゞョア倫理孊ず雖も、決しお近䞖になっお初めおその準備を始めたのでないこずは、云うたでもない。倫理的思想は叀来、殆んど有史以来、凡ゆる民族に斌お芋出されるもので、倫理思想の䞀貫した発達を叀代から今日に至るたで蟿るこずは、極めお容易なこずず云わねばならぬ。少なくずも叀代支那、叀代印床特に原始仏教、ナダダ乃至叀代ロヌマ原始キリスト教、及びギリシアは、倫理思想の叀代に斌ける四぀の倧きな淵源であった。倫理なるものが、すでに述べたように瀟䌚の習慣ず人間の性栌ずを意味したずすれば、぀たり倫理思想ずいうのは、人間の瀟䌚生掻の意識的反映のこずなのであっお、これの割合盎接な盎芚的なそしお皮盞なものがその䞭でも特に倫理思想ず呌ばれ、そしお他のそれより立ち入っお科孊的に分析された反映の郚分は偶々他の名で呌ばれるに過ぎないから道埳に関する瀟䌚科孊的芳念や文孊的芳念の劂き、倫理思想が叀来人間の生掻ず思想ずを䞀貫しお来おいるこずに䜕の䞍思議もない。埓っお所謂倫理孊の玠材も亊叀く叀代ず䞭䞖ずを通じお䌝承されたものによる他はなかったわけで、その意味から云えば又、叀来倫理孊は存圚したのだ。――぀たりブルゞョア倫理孊は之はむギリスに発生しドむツ芳念論ずの接觊を以お栄えお今日に至っおいる凊のものを䞭心ずする、圓然なこずながら、封建制䞋に斌ける倫理思想乃至倫理孊䞻にキリスト教神孊的な、又それにも増しお、奎隷制床䞋に斌ける叀代倫理思想乃至倫理孊末期ギリシア及びギリシア・ロヌマ時代の哲孊ず教父神孊ずを䞭心ずするからの䌝統を有぀わけで、この䌝統の近䞖資本䞻矩的倉貌であるず云っおいいだろう。
 すでにアリストテレスでは「倫理孊」ず呌ばれる曞物は二぀たである道埳論ず題するものも䞀二あるが。このようにこの名称自身は、叀い歎史を有っおいるのは断わるたでもない。䜵しそれであるからず云っお、その内容をすぐ様近代の倫理孊の発端ず芋做すこずは誀りであるし、又之が孊問の䞖界に斌お占めた䜍眮関係から云っお今日の所謂倫理孊ず同じだったずも云えない。第䞀そこで問題になる善To Agathonの芳念にしおも、近代倫理孊で問題になっおいる所謂道埳や倫理の善悪の善「善」に傍点のこずではないので、それより掻々ずしお、真理で矎しくお有益で怡ばしいものを意味しおいる。埓っおこの倫理の根本芳念が占める理論䞊の地䜍は、遙かに今日のものよりも実質的な重倧性ず含蓄ずを有っおいたのだが、䜵しそれだけに华っお、倫理孊自身の独立性はあたり著しくは珟われ埗なかったわけだ。プラトンの囜家論は寧ろ道埳論にぞくするナヌトピアだろう。
 珟にアリストテレスでは、倫理孊゚ティカの䜍眮は経枈孊オむコノミカ――之は玔粋にアリストテレス自身のものではないらしいがず政治孊ポリティカずに先立぀凊に意味を有っおいる。たず個人の問題を解いおから次に家庭の問題、それから瀟䌚囜家の問題を解いお初めお、この䞀連の課題「䞀連の課題」に傍点は解けるのである。倫理孊だけを取り出しおも、それだけで道埳ずいう事物が根本的な解決を䞎えられるわけではない。この点、近代倫理孊の心がけや䞻匵ず可なりに違っおいるのである。今日の倫理孊は、実際䞊今日のブルゞョア政治孊やブルゞョア経枈孊ず殆んど党く䜕の関係を有たずに枈む哲孊の䞀分野ずなっお了っおいる。尀もむギリスに斌けるブルゞョア倫理孊の発生圓時の動機に斌おは決しおそうではなかったのだが、倫が今日ではそういう退屈なこずになっお了っおいる。このこずに䞀定の意味があるのだ。ず云うのは、こうしなければ道埳に就いおのマンネリズム的な垞識的芳念の允蚱を埗るこずが出来ないからだ。ブルゞョア哲孊そのものの内郚に斌おも、倫理孊ずいう専門孊科は孀立した独自のシステムを持おるものだず倫理孊の教授達は想定しおいる。倚くの倫理孊の教科曞は、そういう立堎から今日安心しお曞かれ埗るずいう実状だ。
 埓来「倫理孊」ずいう名が぀いた曞物や理論でも、必ずしも近代ブルゞョア孊問の䞀぀ずしおの所謂「倫理孊」でない所以は、スピノザの哲孊䜓系たる『倫理孊』を芋おも分るこずだ。――こういう颚にしお、叀来から存する倫理思想や自称倫理孊の曞物は、決しおそのたた今日の所謂「倫理孊」でもなければ又その濫觎でもない。
 だがそれにも拘らず、倫理の問題・道埳の問題は、叀代から今日の倫理孊に至るたで、䞀定の脈絡を以お䌝承されおいる、ず云わねばならぬ。ブルゞョア倫理孊にも実はありず凡ゆる圢態があり、又この孊問ほど様々な角床から詊みられおいるものはない。䟋えばシゞりィクは倫理孊の方法を゚ゎむズムず盎芳䞻矩ず功利説ずに分類しおいるしThe Methods of Ethics、J. MartineauTypes of Ethical Theory, 2 Vols.はより広範な立堎から倫理孊の圢態を区分しおいる。珟代では圢匏倫理孊ず実質倫理孊ずの区別などが詊みられおいる。だがそれにも拘らず総括的に芋れば、今日のブルゞョア倫理孊は、叀来の倫理思想乃至倫理孊の、䞀応の決算「䞀応の決算」に傍点でなければならぬのである。――なぜ䞀応の決算かず云うず、埓来の倫理思想乃至倫理孊は、䜕ず云っおも倚少䟋倖ず考えられる堎合――䟋えばストむック孊掟の唯物論に芋える倫理孊たでも含めお、芳念論に立脚したものであり、又事実倚くは芳念論自身の拠り凊であったのだが、この芳念論的倫理思想「芳念論的倫理思想」に傍点は近代ブルゞョア倫理孊によっお、決算報告を受け取ったずいう圢であるし、それだけではなく、このブルゞョア倫理孊の厩壊ず共に、叀来芳念論的に提出されお来た道埳理論が、初めお科孊的な䌚蚈怜査を受ける時期に這入る、ずいうわけだからである。道埳の唯物論的理論こそ、叀来の倫理思想乃至倫理孊ず、近代倫理孊思想ずの、本圓の決算でなければならぬだろう䞀般の倫理孊史ずしおは F. Jodl, Geschichte d. Ethik, 2 Bde. が、短いものではクロポトキン『倫理孊』が䟿利である。

 さお所謂倫理孊近代ブルゞョア倫理孊の䞀般的特色に就いおはこの䜍いにしお、今床は倫理孊による道埳の䌝統的芳念を明らかにする順序である。それにはこの倫理孊的道埳芳念が、どのような道埳問題を遞択したか又するか、そしお之を劂䜕なる圢で解こうず欲したか又するか、を芋ればよい。
 叀代支那や叀代むンドに就いおは暫く措こう。叀代ギリシアに斌おは、道埳が倫理孊的「倫理孊的」に傍点反省の察象ずなったのは決しおそれ皋叀い時代からではない。なる皋道埳的芳念が思想䞀般に䞀定の䜜甚をし始めたのは、恐らくギリシア郜垂囜家の成立ずその瀟䌚秩序・瀟䌚芏範の成立ずに前埌する叀い時代であり、特にギリシア哲孊の発生ず時期を同じくするらしい。ホメロス的䌝説に芋られるような諞神の道埳的無秩序を枅算しお、道埳的秩序を打ち建おねばならなかったずいうこずが、ギリシア哲孊理論の発生原因の䞀郚分であったずされおいる。だがここでは秩序は䞻ずしお自然「自然」に傍点フュヌシスずしお把握されたのであっお、法「法」に傍点ノモスずしお取り出されたのではなかった。道埳論が自然論から分離し始めたのは、云うたでもなく゜フィスト達からであり、圌等は䞻にアテナむ其の他の郜垂囜家を䞭心ずするヘラス地方ギリシアの経枈的・政治的・倖亀的・軍事的な動揺を反映しお、自然論に察する懐疑から、道埳に就いおの懐疑にたで到達したものである。
 この道埳論の発生ず共に、ギリシア哲孊は著しく芳念論的な問題の提出をし始めたこずを泚意せねばならぬ。道埳そのものは明らかに芳念乃至むデオロギヌにぞくする郚面が著しいから、道埳問題を芳念論的な圢で提出するこずには、䞀等安易な初歩的な必然性が有ったわけだ。゜フィストが有った問題は、それが理論的な範囲にぞくする限り、゜クラテスを通っお二人の代衚的な貎族局出身の哲孊者プラトンずアリストテレスずによっお匕き継がれた。ここにギリシア特有の倫理孊が成立する。
 ギリシア文化の所謂繁栄期実は䞀皮の頜廃期なのだがを代衚するこの哲孊的トリオが、道埳に就いお提出した課題は、䜕が善であるか、吊善ず云われるものは䜕か、であった。゜クラテスは英知こそ快楜であり幞犏であり、そしお之こそ善でなければならぬず考えたが、プラトンが善のむデアを䞀切のむデアの最高峯に、或いは䞀切のむデアを統䞀するむデアずしたこず「ピレボス」篇は、既に觊れた。アリストテレスはその『ニコマコス倫理孊』に斌お、善をば、䞭庞・皋の奜さ・に求めおいる。――だがこうした善のむデアは、正にむデアであるが故に、決しお今日の倫理孊や道埳垞識で云うような、ああしたただの倫理䟡倀「䟡倀」に傍点暙尺の劂きものず䞀぀ものではなかったのである。むデアは云わば英知的な県ずも云うべきものを以お芋「芋」に傍点られる凊のものだ。䟡倀のような云わば論理的な想定のこずではない。善がギリシアに斌お矎や幞犏や快楜の意味を持ち、又その意味に斌お真であり有利なものであったのは、そのためである。
 善ずいうものはむデア之は決しお近代的な意味での芳念「芳念」に傍点のこずではないずいう存圚ずしお芋る、この存圚論的倫理説は、云うたでもなく叀代的圢態に斌ける芳念論の頂点をなしおいる。ここでは善は芋ら「芋ら」に傍点れるものむデアずしお芳照の䞖界にぞくする。善が人間の実践行動に盎接関係しおいるのは勿論だが、今の堎合その実践なるものそのものが芳照の察象でしかない。善は意志の目的物ではなくお寧ろ哲孊的盎芳の察象である。善は䞀぀のむデアずしお、䞻芳的なものではなくお寧ろ客芳的なものだが、それだけに䞀向䞻䜓的なものにならぬ。ここにこの道埳芳念の圢匏䞻矩圢盞䞻矩から来るず普遍䞻矩ず非歎史䞻矩ずの䞀切が結果するこのむデア論はアリストテレスが克服しようずした凊であるが、今の問題はむデアによっお代衚されるギリシア思想自身にあるのだ。圓時の実際的な道埳芳念は、云うたでもなく奎隷所有者の支配的自由民のものだが、倫がプラトンやアリストテレスの瀟䌚理論の内に根深く食い蟌んでいるにも拘らず、善のむデアは特にプラトンに斌おのように、そうしたものから党く超然ずしおいるのだ。
 だがこのむデア論的倫理説は、䞀皮貎族的な芳念論之は圓時政治的には反動を意味したに立脚したにも拘らず、それであるが故に华っお今日の倫理孊に范べお、すぐれた幟぀かの点を有っおいる。この道埳理論は圓時の今日でもそうだが垞識にも拘らず、道埳をば専ら道埳埋を䞭心ずしお考えるのでなく、又埳目さえがそこでの最埌の問題ではなかった。その善なるものが所謂善悪ずいう䟿宜的な䟡倀暙尺の劂きものでなかったこずは、䜕べんも述べた凊だ。
 道埳ずいう芳念をより近代的なものに近いものぞず霎したのは、ストむック掟や゚ピクロス掟である。これは゜クラテスず小゜クラテス掟の忠実な䌝統を远うものであっお、道埳は個人の生掻術「個人の生掻術」に傍点を意味するこずずなり、ここに云わば倫理孊のアりタルキヌが確立されたのである。ず云うのは、道埳はこの倫理孊によるず、瀟䌚や家庭の問題ずは党く無関係に、完党に個人の関心ずしお、䞀぀の小さな封鎖された纏りを持぀領域ずなる。独身のルンペン䞻矩哲人で有名なキニック掟のディオゲネスや、䞋っおネロの忠良な廷臣セネカストむック掟などを思い起こせば、この点は明らかだろう。゚ピクロスは甚だ瀟亀的な敬愛すべき哲人だったので有名だが、その道埳理論は、略々ストアのれノンず同じに、䞍動心「䞍動心」に傍点ずいう知的゚ゎむズムに他ならなかった。
 これ等の道埳理論家達は、ギリシア・ロヌマ期を通じおの瀟䌚的動揺に凊しおその道埳を瀟䌚に斌お貫く代りに、之を個人生掻の生掻術にたで萎瞮させるこずによっお、道埳を著しく倫理孊的なものにした。道埳の芳念は個人䞻䜓の心理にたで深められはしたが、䜵し之を、知的に芋れば党く䟿宜的なものに他ならない凊䞖術に仕えさせたがため、結果ずしお退屈な埳目の教説に終らざるを埗なかったのである。圌等による道埳の問題は幞犏の探究「探究」に傍点であったのだが、この実践的な課題の解決も、瀟䌚的に芋れば完党な無為無胜を意味する個人の心の静けさ以倖には求め埗なかった。之ならば奎隷にも抑圧された原始キリスト教埒にも、カ゚サルず同様に、あお嵌たるわけだ。個人䞻矩的、䞻芳䞻矩的な芳念論的道埳芳念の、叀代的な代衚が之なのである。
 叀代乃至䞭䞖に斌ける芳念論的道埳芳念のもう䞀぀の兞型は、教父乃至スコラの倫理説であるが、その根源的なものは教父・聖アりグスティヌスのものであった。圌によれば神の存圚の蚌明は宇宙論的にも心理的にも出来るず云うのであるが、神の道埳的蚌明が䜕より今興味がある。人間が善をなすように仕向けるものは、瀟䌚其の他による倖郚的匷制ではない。それはただ善き意志「善き意志」に傍点だけがなし埗る凊だ。これは神の意志である他ない、ず云うのである。人間はこの神に仕え、神はその善き目的の䞋に人間をあらしめる。神は人間に恩寵を垂れ絊う。そしおこの恩寵の内にこそ人間の道埳が暪たわるのである。――人間は意志の自由「意志の自由」に傍点を持っおいる、これこそ神が人間にだけ䞎え絊う恩寵だ、埓っお之は実は人間のものではなくお神にぞくする。その意味では吟々は道埳的に決定論・宿呜論のものだ、意志の自由「意志の自由」に傍点は本圓ではない。だが事実、神が䞎えた意志自由によっお人間は珟に悪をなすこずが出来る。凊がこの悪も亊恩寵の䞀぀なのだ。悪は䞖界の党䜓の善に寄䞎するためにあらざるを埗ないものだ、ず云うのである。銬は石に躓いおも、躓くこずの出来ない石よりも、よく歩くものであり、人間は自由意志によっお眪を犯しおも、自由意志がなくお眪を犯すこずさえ出来ない他の動物よりも、立掟なのだ、ず云う。
 アりグスティヌスによれば、道埳は幞犏「幞犏」に傍点ず氞生「氞生」に傍点ずの内に存する。ギリシア哲孊者ぱピクロス孊掟もストむック孊掟も幞犏を地䞊のものに限っお考えたので、之を氞生ぞ結び぀ける術を知らなかった。凊が真の完党な幞犏は、神を楜しむこずでなければならぬ、ず云うのである。――でここに、道埳に就いおの倫理孊的芳念に就いお、神の䞖界がその根柢を䞎えるこずずなったわけだ。道埳的な善悪は、むデアの問題でもなければ珟䞖的な生掻術の問題でもなくお、倩囜ず地䞊ずの察立のこずでしかなくなった。之はヘブラむ的思想から来た党く新しい芳念論的芳点なのであるヘブラむ思想をギリシア思想に結び぀けたものがこのアりグスティヌスで、之に先立っお、ギリシア思想を東方思想に結び぀けたのがプロティノスであった。
 だが倫ず同時に、゚ピクロス孊掟やストむック孊掟には芋られなかったような、䞀぀の芖野が開かれお来たこずを芋萜しおはならぬ。ず云うのは、アりグスティヌスの「神の囜」はカ゚サルの囜の察蹠物に他ならなかったので、圓然この珟実の瀟䌚「瀟䌚」に傍点が、倫理䞊の問題ずならねばならぬからだ。圌によるず、個人が神の僕であるず同じに、瀟䌚は神に仕えるためのものであっお、党く道埳的本質のものだ。山賊ででもない限り、人間はこの瀟䌚の正矩たる囜法を遵らねばならぬ、ず云うこずになる。特にキリスト教囜に斌おは、瀟䌚の倫理的行為たる教育は、神の認識を教えるこずだけで充分であっお、ギリシア人的な自然研究などは無甚有害だず云うのである尀も蚀語・匁蚌術・修蟞孊・数理論は必芁だずする――事実アりグスティヌスは優れた文化人であったこずを忘れおはならぬのだ。――かくおアりグスティヌスの神に基く神聖倫理は、぀たり䞖俗のカ゚サルの垝囜に斌ける垞識的な階玚道埳そのものず、少しも実質を異にするものではない。倫理孊に斌ける神孊的芳念論「神孊的芳念論」に傍点はここに始たる。
 アりグスティヌスによっお道埳の芳念は宗教倫理的なものずなった。ここに含たれる特有な道埳問題は、単に善或いは悪や幞犏乃至浄犏の問題ではなくお、恩寵であり氞生であり、そしおもっず倧事なのは、之に盎接関係のある悪「悪」に傍点根本悪ず自由意志「自由意志」に傍点ずの問題なのである。之はギリシア倫理孊では殆んど党く存圚しなかったものであるず共に、之なくしおは近代ブルゞョア倫理孊を考えるこずの出来ないような、根本問題なのだ。こうした根本問題がアりグスティヌス広くキリスト教倫理孊から発生したのである。

 さお私は以䞊、叀代乃至䞭䞖に斌ける道埳理論乃至倫理説・倫理孊の䞉぀の兞型ず、倫々に含たれた課題ずを述べた。そしおこの䞉぀のものが、倫々の圢に斌お、劂䜕に芳念論ず䞍可分な関係に立っおいたかを芋た。――之を頭においた䞊で、近代ブルゞョア倫理孊の課題ず特色ずを芋よう。
 叀代に斌ける倫理思想がそうだったように、近代に斌ける倫理思想の自芚も亊、䞀般思想の激しい動揺、即ち瀟䌚機構の著しい倉革によっお促された。すでに述べたように、道埳は瀟䌚秩序の分泌物のようなもので、埓っおその反映である道埳意識乃至倫理芳念は、瀟䌚秩序の䞊郚構造的な衚珟に他ならないが、瀟䌚秩序が比范的安定を埗おいる堎合には、その道埳乃至道埳意識は、自分の内に䜕等の抵抗も矛盟も感じないので、倫理思想は殊曎自芚される瞁もなければその必芁もない。倫理が問題ずしお自芚され、倫理孊などが発生するのは、䞀般に瀟䌚倉動ず倫に基く思想的動揺ずに照応しおのこずなのだ。近代ブルゞョア倫理孊の発生も亊そうなのである。
 前にも云ったが、近代倫理孊はむギリスのブルゞョア倫理孊ずしお発生し又発展した。その盎接の源をなすものはトヌマス・ホッブズであった。ホッブズに先立぀゚リザベス時代は、むングランドがペヌロッパに斌ける制海暩を握り怍民地貿易䌁業には莫倧の利最をあげ埗た、商業資本䞻矩の倧芏暡な発達時代であった。圓時の海倖貿易䌚瀟は䞀〇〇割の配圓をなし埗たずさえ云われおいる。尀もこの点ルむ十四䞖治䞋のフランスでも倧した差はなかったのだが、䜵しむングランドに斌ける特色ある䞀事情は、新興ブルゞョアゞヌの早い発達が容易に地䞻貎族の利害ず結合出来たずいう点に存する。だから反封建的なノミナリズム的な経隓論的機械論之が近䞖ブルゞョアゞヌの本来の䞖界芳であったが、絶察君䞻䞻矩などず理論的に結合するこずも匷ち䞍可胜ではなかったので、恰もホッブズの倫理思想は、そうした堎合に盞圓するものに他ならなかったわけだ。
 ホッブズの倫理説は、人間性「人間性」に傍点の怜蚎から始たる。ず云うのは、人間の情念Passionの分析から始たる。人間の情念は粟神の機械的運動に他ならないが、䞀般的な情念ずしおは愛奜・欲求玢匕運動に盞圓するず苊痛・憎悪・恐怖反発運動に盞圓するずが察立しおいる。その根柢を貫くものは暩力ず名誉ずの欲望だ。それ故人間は元来䞀人々々倫々皆第䞀人者ずなろうずしお競争ず闘争ずをなし぀぀あらざるを埗ない。所謂「䞇人が䞇人に察する闘い」である。各個人はその自然状態に斌おは、キリスト教的䌝統芳念ずは反察に、自己保存ず自己増殖ずの欲望によっお動かされる野獣か狌に他ならない。こうしお各個人は無限の暩力を欲するものなのだ。その際、善「善」に傍点ずは銘々が自分に気に入った郜合のよいこず以倖のものでなく、倫が各個人にずっおの正矩「正矩」に傍点法ずいうものに他ならぬ。第䞀の善は自己保存であり、第䞀の悪は死ぬこずだ、ずホッブズは䞻匵するのである読者はここに、道埳の問題が人間性の問題から善悪の暙尺の問題ぞ移行するのを芋るだろう。
 凊がこの自由状態に斌ける各人は、お互の反目猜疑抗争が、銘々の生存に取っお実は危険極たりないものであるこずを発芋する。人間に理性乃至悟性がある限りこの発芋は容易だ。そこで人間は平和を欲求するようになる。かくお今床は、善ずは人間瀟䌚の平和にずっお必芁な凡おの手段の名であり、悪ずは之を劚げるものの名だ、ずいうこずになる。では人間瀟䌚のこの平和を保蚌するものは䜕か。倫が法であり囜法である。埓っお曎に又、善ずは囜法に埓うこず以倖の䜕物でもなく、悪ずは囜法に埓わないこず以倖の䜕物でもない、ずいう結論になる。道埳の善悪䟡倀暙尺の問題は、こうしお瀟䌚囜家に斌ける法䞍法「法䞍法」に傍点の尺床の問題に垰着する。
 ここにホッブズの有名な瀟䌚契玄説が圌の倫理孊に察しお有぀根本関係が暪たわる。瀟䌚は自由状態に斌ける各個人が、その快䞍快の実際を理性的に反省した結果、平和機構の契玄を亀した凊に成立するずいうのである。――凊がこの瀟䌚なるものは、ホッブズによるず実は専制君䞻囜のこずでしかない。぀たり䞀人の支配者を遞択しお、他の人員は臣䞋ずしお之に殆んど絶察的に服埓するずいう契玄が、初めお瀟䌚を成り立たせるのだ。君䞻はかくお䞀皮の倩賊の自然暩を有぀ものずなる尀も君䞻が君䞻に盞応わしくない時は臣䞋は之を捕瞛したり远攟したり監犁したりしおもよいずも云っおいるのだが。――このホッブズのアブ゜リュティズムは、チュヌドル王朝特に又スチュアヌト王朝のデスポティズムを倫理的に合理化したものであるこずは、疑いを容れない。圓時個人「個人」に傍点の圢で珟われたブルゞョアゞヌの勢力は华っお、囜家「囜家」に傍点の圢で発珟したこのデスポティズムの積極的発動を促した。ハンプテンなる人物は船舶皎の玍入を拒吊した。そしおチャヌルズ䞀䞖は議䌚を半氞久的に解散しお了った。――こうしたわけでホッブズ倫理孊は、むギリス・ブルゞョアゞヌの発展初期に斌けるこの云わば倉則な必然性を衚珟した凊の、やや倉則な「やや倉則な」に傍点ブルゞョア倫理孊に他ならなかったのである。やや倉則なずは次の意味だ。
 䞀般にホッブズの哲孊が機械論的唯物論の代衚であったこずは、今曎説明を必芁ずしない。その倫理孊も党くこの唯物論の可胜的な垰結の䞀぀に過ぎない。だがこの唯物論がやがおゞョン・ロック等の手によっお、経隓論にたで粟緎されるこずによっお、むギリスの爟埌の倫理孊は名目䞊でも完党な芳念論の兞型ずなるようになった。特に経隓論の䞀぀の圢である凊の、道埳感情や道埳感芚や垞識哲孊の垞識を䟝り凊ずする各皮のむギリス道埳科孊・道埳哲孊・倫理孊はそうだシャフツベリ䌯爵・トヌマス・リヌド其の他。機械的唯物論が倫理孊に斌お再び口を利き始めたのはフランス唯物論者に斌おであった゚ルノェシりスやホルバッハ䌯爵。――ホッブズの唯物論的倫理孊がブルゞョア倫理孊であるべきであった限り、それは歎史的に䞍幞に終らざるを埗なかった。なぜなら其の埌のブルゞョアゞヌは、倫理孊の内に他ならぬ芳念論の代衚者ず足堎ずを発芋しようず欲したのだからである。
 だがそれにも拘らず、ホッブズ倫理孊の人間性論「人間性論」に傍点が、長くむギリス倫理孊の根本課題ずしお残されたこずは、重倧である。先に云った䞀連の道埳感情論的倫理孊は正にここから出発したのであったし、むギリスの政治孊や経枈孊も亊これなしには発育しなかったロック・ヒュヌム・スミス・等を芋よ。そしお人間性の善悪「善悪」に傍点の問題ホッブズに斌おは人間性悪説だったは、道埳の問題を善悪の䟡倀察立問題ずしお、その埌の倫理孊を支配したベンサムの功利䞻矩に立぀最倧倚数の最倧幞犏説――之はベッカリヌアの思想から糞を匕いおいるず云われる――を芋よ。そしお最埌に、ホッブズが善悪の察立を法䞍法の察立に還元するこずによっお、道埳を少なくずも䜕よりも道埳埋「道埳埋」に傍点ずしお理解せねばならなかったこずを泚目しなければならぬ。之も亊その埌のブルゞョア倫理孊に斌ける垞識的道埳芳念の䞀぀の圢態をなすものである之はカントによっお探究された圢態の「道埳論」だ。
 だが、道埳がその本質を瀟䌚「瀟䌚」に傍点の内に持っおいるずいうこずは、ホッブズの倫理説によっお初めお真向から取䞊げられた凊の、忘るべからざる特色なのである。この特色は事実䞊唯物論機械論的倫理孊ず必然的な関係があるものであっお、埌に゚ルノェシりスなどは十八䞖玀に斌けるその代衚者でなければならぬ。尀も機械的唯物論は道埳の歎史的「歎史的」に傍点発達を理解し埗ないのを垞ずする。埓っお之によっおは道埳の瀟䌚的本質は、本圓の凊を理解し埗ないのが圓然だ。之は機械論的唯物論的倫理孊の最倧の根本的欠陥であるず共に、同時に又、ブルゞョア芳念論的倫理孊にずっお略々共通のヘヌゲルは陀く根本的遺挏に他ならない。
 かくお吟々は、ホッブズの倫理孊ずそれに基くブルゞョア倫理孊なる独立領域の成立ずの内に、近代ブルゞョア通俗垞識「通俗垞識」に傍点による道埳芳念の、根本的な諞芏定倫を私は第䞀章で述べたの殆んど䞀切の萌芜を芋るこずが出来るず云っおいいだろう。――だがそれにも拘らずここにはただ、近代ブルゞョア芳念論的倫理孊の、最も倧切な二䞉の根本問題が盛られおいないのである。珟にホッブズのは本来が唯物論的倫理孊に他ならなかった。近代ブルゞョア芳念論が最も愛奜する倫理孊的テヌマが、それにはただ欠けおいるのだ。そしおこの特有に近代倫理孊的なテヌマを介しお、ブルゞョア芳念論䞀般が、ブルゞョアゞヌの通俗垞識を螏み越えるようにさえ芋せかける筈である。――䞀䜓ホッブズ倫理孊では、すでに叀兞的に珟われた道埳の諞問題を、䜕ず云っおもあたりに機械的にそしお簡単に、片づけお了った憟みがあっただろう。

 ブルゞョア倫理孊の芳念的代衚者は他ならぬ・カントである。尀もカント哲孊は必ずしも玔粋なブルゞョアゞヌの哲孊ではなくお、それのプロシャ的啓蒙君䞻的倉容に盞圓するものであるが、䜵しカント哲孊の新鮮味はペヌロッパ・むギリス・ブルゞョアゞヌの生掻意識を積極的に吞収した凊に存する。圌の䞖界垂民「䞖界垂民」に傍点の理想は之を最もよく云い衚わしおいるだろう。
 ホッブズでもそうであったが、カントの倫理思想はその囜家・法埋・政治の理論ず密接な関係に立っおいる。又圌はホッブズず同じく、自然法の正統にぞくしおいる。だがカントの特色は、そうした囜家・法埋・政治等々の理論ずは比范的独立「比范的独立」に傍点に、「実践理性」の領域を、「道埳」Sitteの領域を、取り出し埗るず考えた凊にあるのである。カントの手によっお「実践理性批刀」ずか「道埳の圢而䞊孊的原理」ずか「倫理孊」ずかいうものが、独自な封鎖された孊問領域ずしお掲げられた。――カントは䞻ずしお、道埳の䞖界を自然界・経隓界から峻別した。この区別はカントの考え方の至る凊に、䜓系的に貫かれおいるのである。だから又、カントによる倫理孊の独立「倫理孊の独立」に傍点は、極めお䜓系的な根拠を有っおいるこずを忘れおはならない。
 カントによれば理論理性は倫が経隓的に甚いられる時、ず云うのは感性的な盎芳乃至知芚ず結合しお甚いられる時、経隓界の自然科孊的な認識を霎す。之以倖に正圓に経隓ずか認識ずか呌ばれるべきものはない。぀たりこのような珟象界に就いおしか、吟々は経隓や認識を有おないわけなのである。珟象界の背景にあるかのように考えられる本䜓界物そのものの䞖界は理論理性の察象ではあり埗ない。之を無理に理論理性の察象ずしようずするず、二埋背反ずいうような困難が発生するのだ、ず圌は云う。凊でこの本䜓界ノりメナに這入り埗るものは、理論理性ではなしに正に実践理性「実践理性」に傍点なのである。この実践理性の䞖界が道埳界に他ならない。
 なる皋この道埳界は経隓界自然界ず党く無関係なものずは云えない。事実道埳界は経隓的珟象界を通じお芋出される他はないだろう。人間は道埳界にぞくするものずしお自由「自由」に傍点である、だがこの自由も因果埋に埓っお行動する経隓的な人間自身が持぀凊のものだ。で、二぀の䞖界は無論無関係ではない、ただ党くその䞖界秩序が別なのだ、ず考えられおいる。――だがこの党く別な秩序界の間の、䜓系的な関係は䜕か。䞡者が無関係でなくどこかに接觊点があるずいうこずず、この接觊が䜓系的に明らかであるずいうこずずは別だ。この意味で道埳界ず経隓自然界、倫理孊の領域ず経隓科孊的認識の領域ずは、どう関係するか。この問題は圓然カント哲孊党般の䜓系的な構造が䜕であるかを尋ねるこずだ。凊がカント自身によっおは、実はこの関係が殆んど党く有機的に解かれおいないのである。なる皋䟋の『刀断力批刀』は理論理性ず実践理性ずの総合を問題にしおいるように芋える。だが実は、この第䞉批刀が䞁床第䞀批刀ず第二批刀ずの䞭間に䜍する問題「䜍する問題」に傍点を取り扱っおいるずいうたでで、この問題自身が䞡者の総合や結合を意味するずいうわけではない。この意味からいうず、カントの批刀哲孊の「䜓系」は圌自身の手によっおは䞎えられおいなかったず云わねばならぬカント哲孊の䜓系づけを詊みた良曞ずしおは田蟺元『カントの目的論』がある。
 こうしおカントの倫理孊は、認識理論や芞術理論から殆んど党く独立な領域ずしお珟われる。その結果は而も瀟䌚・囜家・政治・法埋からさえ、独立した䞀぀の封鎖領域なのである。――凊でこの関係は二぀の結果を必然にする。䞀぀は倫理孊の圢匏化「圢匏化」に傍点であり、䞀぀は倫理孊の固有問題「固有問題」に傍点の蚭定である。ず云うのは、倫理孊の内に実質的内容を入れお考えるずすれば、他領域ずの関係が這入っお来なくおはならなくなるし、倫理孊だけに固有で他の孊問では取り扱えないような問題がいく぀か芋出されなければ、倫理孊ずいう特別な専門領域は無甚になるだろうからだ。
 カントの倫理孊に斌ける圢匏䞻矩は有名であるが、之はブルゞョア倫理孊にずっお決しおただの偶然ではない。ブルゞョア倫理孊が倫理孊ずいう固有領域を確保するためには絶察に倫が必芁だったのだ。たず経隓的因果の連鎖を取り陀き、次に人間的欲望の性向傟向を取り陀き、それから道埳埋根本呜題の特殊な䞭味を取り陀く。かくお倫理孊は極めお貧匱なものずなるように芋えるのだが、実は华っお之によっお、倫理孊ずいう特殊領域が、い぀でもどこにでも口を容れるこずが出来るような特暩を獲埗するのである。堎所・歎史的時代・瀟䌚階玚などずは党く無関係に、この倫理理論は通甚出来るわけだし、又劂䜕なる瀟䌚珟象の根柢ずしおも、この圢匏的な倫理孊は、圢匏的であるが故に必ず想定されお構わぬものずなる。瀟䌚が倫理的「倫理的」に傍点に芋られるためには、即ち、瀟䌚が芳念論的「芳念論的」に傍点に特城づけられるためには、倫理孊は圢匏䞻矩を取らねばならぬわけだ。であるから・カりツキヌが近代のブルゞョア哲孊にぞくする倫理孊の䞭から、特にカントを長々ず取り出しお、専らその圢匏的普遍䞻矩を指摘したのは、圓っおいるだろうカりツキヌ『倫理孊ず唯物史芳』はマルクス䞻矩唯物論的文献に斌ける唯䞀のやや系統的な道埳論だ。
 䜵しい぀でもどこにでも口を容れるこずが出来るためには、倫理孊は自分でなければ取り扱えない諞問題、而も䞀切の他領域に斌お根本的な圹割を有぀だろう諞問題、を有っおいなくおはならぬ。この問題を掘り䞋げた者が、カントであった。自埋・自由・人栌・性栌「自埋・自由・人栌・性栌」の「・」を陀く郚分に傍点などの根本抂念が之だ。意志の自由の問題はすでにストむック孊掟にも芋られるが、最も深刻な意矩のものはアりグスティヌスの神孊的芳念による倫であった。カントは之を人間理性の自埋の内に発芋したのである。この自埋による自由の䞻䜓が人栌であり、人栌の特色をなすものが性栌だ。道埳乃至倫理ずは芁するに、この人栌を以お、手段ではなくおそれ自身目的であるように、行動するこずに他ならぬ。人栌は経隓的には䜕であろうず倫理的にはそういう目的「目的」に傍点であるずいうのだカントは経隓的性栌ず英知的性栌ずを察立させる。
 かくお倫理孊ずは、自由「自由」に傍点や人栌「人栌」に傍点やを、そしおこの根本抂念に基いお道埳埋や善悪の暙準やを、研究する凊の、䞀぀の独立な封鎖された孊問のこずずなる。道埳埋や善悪暙準の問題はブルゞョア通俗垞識の問題でしかない、だが之を倫理孊ずいう専門的な孊問は、自由や人栌ずいう範疇の怜蚎を以お、裏づけるずいうのだ。――凊がその裏づけの結果は倫理孊に䞀皮のブルゞョア的光栄を霎すものだ。なぜなら、䞀切の人間関係・瀟䌚関係は、之によっお、人栌「人栌」に傍点の結合や「目的の王囜」や理想「理想」に傍点の䜓系界ずいうような根本的意矩を䞎えられるこずになるので、぀たりこのブルゞョア芳念論的倫理孊は、䞀切の瀟䌚理論の根柢をなすものだずいうこずになるのである。芳念論は䞀般にだから、この倫理孊を利甚さえすれば仕事は極めお簡単ずなる。
 自由や理想や人栌は、今日の道埳垞識では寧ろ平凡な芳念になっおいるず云っおいいだろう自由に就いおはノィンデルバント『意志の自由』――戞坂蚳が参考になろう。䞖間の人達が唯物論に反察するために考え぀く根拠も、唯物論が之等の問題をこの正に倫理孊的な道埳の問題を、解こうずしないずいう論拠である。この批難に意味のないこずは、いずれ明らかになるこずだが、䜵しこの皮の倫理孊的範疇にもう䞀぀「我」ずいうカテゎリヌを぀け加えたフィヒテのこずを忘れおはならぬ。フィヒテはその玔粋我「玔粋我」に傍点なるものの存圚の仕方を論じるこずによっお、行・実践「行・実践」の「・」を陀く郚分に傍点なる倫理孊的芏定を匷調するに至った。之は「我」ずいう倫理的䞻䜓にずっお必然な倫理孊的芏定だ。凊が之は恰も極めお倫理孊的な芏定であるこずを芋萜しおはならぬ。なぜずいうに、ここで行なう行ずか実践ずかは、䜕等人間的掻動ずしおの産業や政治掻動を意味するのではなくお、単に自芚的に考えたり身䜓を動かしたりするずいうこずにすぎないからだ。䜕でも自芚的にやりさえすれば倫が実践だずいうわけだ。――だがそれにも拘らず「我」之は必ずしも瀟䌚に察する個人「個人」に傍点ずいうだけのものではないがは、人栌ずいう芳念ず共にブルゞョア・むデオロギヌを代衚する凊の有力な合蚀葉である。道埳の問題を我「我」に傍点ぞたで持っお行くこずはそれ自身意味のあるこずだ。䜵しこのフィヒテの我たるものが、極床に独立した独身の自発性を有ったもので、䞀切の䞖界がこの自我からの発展だずいうのである。我はフィヒテにずっおは、ドむツ哲孊的䞻芳的芳念論のパンドヌラの箱に他ならない。而もこの我がフィヒテの倫理孊の枢軞だったのだった。
 フィヒテの哲孊及び倫理説が、カント哲孊の䜓系的発展実践理性によっお理論理性を統䞀しようずいうであったこずは、云うたでもない。フィヒテに次ぐドむツ芳念論者はシェリングであるが、晩幎のシェリングはヘヌゲルずの論争に沿っお、自由意志論の展開を詊みた。だが倫は極めお宗教的哲孊思玢であっお、もはや道埳に関する倫理孊的な垞識芳念の他ぞ出お了っおいる。――で぀たり近代ブルゞョア倫理孊の内、道埳に関する倫理孊的問題・倫理孊的根本抂念、を最も積極的に展開するものは、カント乃至フィヒテであったずいうこずになる。珟代の矀小諞倫理孊は、倚少ずもこの圱響に立たないものはない・リップス其の他。
 だが最埌に、ごく近代的な倫理孊の䞀傟向ずしお、生呜「生呜」に傍点の倫理孊を数えおおかねばならぬ。その䞀぀はダヌノィン䞻矩的倫理孊でありカりツキヌ前掲曞参照、その二぀は䟋えばギュむペヌの倫だ「矩務も制裁もなき道埳の考察」其の他。圢匏䞻矩的倫理孊に了る道埳芳念の代りに、生呜内容による闘争や生掻意識の高揚やを導き入れたこずがその特色であるが特にギュむペヌの劂きは道埳を道埳埋䞭心䞻矩的な又善悪察立䞻矩的な芳念から解攟した、道埳の歎史的発展「歎史的発展」に傍点に就いおの積極的な䜓系は党く之を欠いおいる。之は、この皮の「生」の倫理孊が䟝然ずしお圢匏䞻矩的倫理孊ず共に分぀宿呜なのである。之はだから実は本圓に内容的な「内容的な」に傍点倫理孊ではあり埗ないわけだ。この点珟象孊的「珟象孊的」に傍点倫理孊其の他のもの・シェヌラヌの劂きになれば、もっず明らかだろう。
 極めお最近では、倫理孊を人間孊乃至「人間の孊」ず芋做すこずも行なわれるが䟋えば和蟻哲郎博士、こうした人間孊「人間孊」に傍点は芁するに瀟䌚を倫理「倫理」に傍点に解消する代りに、之を人間「人間」に傍点に解消するためのもので、明らかにこの点で埓来のブルゞョア芳念論倫理孊の代甚物ずしおの機胜を有぀、倫が改めお今時、倫理孊ず芋立おられるのは尀もだず云わねばなるたい。――倫理思想を歎史的「歎史的」に傍点に導いお来なければならぬず云っお、東掋倫理や日本倫理孊を説く者が、今日の囜粋反動埩叀時代に倚かりそうなこずは、誰しも思い付くこずだ。西晋䞀郎博士によれば、「東掋倫理」は科孊や孊問ではなくお教え「教え」に傍点であり教孊「教孊」に傍点であるずいう。この教孊䞻矩の䜓系が今日の日本に斌ける兞型的な半封建的ファシズム・むデオロギヌの垰着点であり、特色ある芳念論組織の尀なるものであるこずは論倖ずしおも、この皮の歎史的な倫理孊が、実は䜕等の歎史孊的認識に立぀ものでもないこずは、䞀目瞭然たるものであろう。叀代支那の習俗ず支那蚳印床仏教教理ずの結合が、二十䞖玀の資本䞻矩匷囜日本の生掻意識だずいうのであるから其の他、日本の垫範孊校教垫匏倫理孊の倧矀に就いおは、ここに語る必芁はあるたい。
 さお、道埳に関する倫理孊的芳念、特に又ブルゞョア芳念論的ブルゞョア倫理孊から眺められた道埳芳念、その特色ある兞型を私は芋たのであるが、この倫理孊なるものが劂䜕に独立独歩の専門的孊問であり、その根本問題自由ずか人栌ずか理想ずかが劂䜕に倫理孊にだけ特有なものであったずしおも、結局それによっお生じる道埳なるものの芳念は、今日のブルゞョア垞識による道埳芳念の、埒倖ぞ出るものではない。道埳は非歎史的で超階玚的で、普遍的で圢匏的であり、真に瀟䌚的な䜕ものでもない。圚るものは個人䞻矩道埳個人道埳か、個人䞻矩道埳の単なる瀟䌚的拡倧でしかない・ナトルプの「瀟䌚理想䞻矩」の劂きが埌者だ。このおかげで道埳は、今日の芳念論の暩嚁ず神秘ずの聖殿に他ならぬものずなっおいる。䜕か倫理孊的な独立封鎖領域があっお、凡おの瀟䌚理論はこの聖地を蚪れるこずによっお初めお人間的䟡倀を受け取る。そしお而もその際、道埳ずは、倚くの堎合䞀二の䟋倖は別ずしお、道埳埋や修身的埳目のこずでしかなく、善悪の暙準のこずでしかなかったのだ。
 倫理孊はこのようにしお、道埳ずいう垞識芳念をただ哲孊的に反芆するものであるにすぎない。道埳的垞識の批刀どころではない所以である。――道埳は倫理孊によっお、党く卑俗な矮小な憐むべき無力なガラクタずなる。之が総じおブルゞョア瀟䌚特有な個人䞻矩「個人䞻矩」に傍点のおかげであるこずは、改めお説明するたでもないこずだ。だが之が神聖なるものの事実であったのだ。
 私はこの卑小な道埳の芳念を超えお、道埳に就いおの、もっず生きたスケヌルの倧きな芳念を芋ねばならぬ。それは今日の瀟䌚科孊特に史的唯物論唯物史芳が玄束する凊のものである。





 
第䞉章 道埳に関する瀟䌚科孊的芳念



 すでに芋たように、道埳ずいうものが日垞生掻・日垞垞識にずっおたず第䞀に意識される圢は、䞀皮の倖郚的な匷制力ずしおであった。之は原始人に就いお最もよく芋られる凊だ。自分はその欲望、情操、理性、其の他に基いおある䞀定の自由を欲しおいる、所が瀟䌚から来る倖郚的な抑圧がこの自由を抑圧しおいる、ず感じる。この感じの内に悪意は含たれおいないにしろ、或いは寧ろ倧抵の堎合奜意ず埗意ずが含たれおいるにしろ、又はそういう奜悪に党く無関心であるにしろ、この感じ自䜓がこの際の原始的な道埳芳なのである。ここではただ倫が善いこずか悪いこずかさえ考えられおはいない。なる皋この䞀定の道埳的匷制道埳埋を砎るこずは、色々な意味で悪いこずだず解せられる。倫は自分や自分が属する郚族氏族又家族に、ある䞀定の䞍幞を霎すかも知れない、神やスピリットは怒るかも知れない、からだ。䜵しそれだからず云っお別に、この匷制そのものがそれ自身に善なのだずいうような、合理的な理由による䟡倀評䟡があるわけではない。だがそれにも拘らず之は立掟に道埳――原始的な――なのである。でもし、原始瀟䌚を専らこの瀟䌚的匷制ずいう䞀フェヌスからだけ考察するならば、原始瀟䌚の機構は道埳的で又宗教的なものだずいうこずにもなるだろう・デュルケム『宗教生掻の原始的諞圢態――オヌストラリアのトヌテム組織』――邊蚳あり――参照。
 この原始的な道埳芳念は実はやがお、珟代人が道埳に就いおも぀最も原始的な芳念でもあったのである。凊でここに泚意しおおかなくおはならぬ点は、この道埳がこの際倫が原始宗教の圢をずる堎合でもよい、他ならぬ瀟䌚的「瀟䌚的」に傍点匷制だったずいう点である。道埳はここでは党く瀟䌚的「瀟䌚的」に傍点なものず考えられおいるのである。凊が道埳に就いおの芳念がもう少し進歩するずそしおこの進歩は実に瀟䌚そのものの進歩の結果に盞応するものだが、道埳は単なる瀟䌚的匷制ではなくお、曎に匷制される自分の䞻芳自身がその匷制を是認する、ずいう点にたで到着する。この時初めお、道埳に就いお本圓の䟡倀感が成り立぀のである。そしおこうしお道埳の芳念が構成される際の䞀぀の方向は、道埳を䞻芳の道埳感情・道埳意識に䌎う䟡倀感そのものだず考えるこずに存するようになる。こうしお良心ずか善性ずかいう䞻芳的な道埳芳念が発生する。所謂「倫理孊」は、こうした䞻芳的な道埳芳念を建前ずする段階の垞識に応ずる凊の、道埳理論だったのだ。
 埓っおこの「倫理孊」は、道埳が有っおいる最も原始的な又は最も芁玠的な、䟋の瀟䌚的匷制ずいう性質を、殆んど党く忘れお了い勝ちなので、あずから瀟䌚道埳「瀟䌚道埳」に傍点ずか個人の察瀟䌚的矩務ずかいうこずをいくら口にするにしおも、その出発点に斌おは、倫理孊は前瀟䌚的又は超瀟䌚的・脱瀟䌚的な道埳芳念に立脚しおいるのである。だから倫が瀟䌚的理論にぞくさずに、独立した倫理孊ずなれるのだ。䞻芳の名に斌お瀟䌚を忘れ、個人䞻䜓から瀟䌚的な事物をも説明しようずいうのが、ブルゞョア・むデオロギヌの䞀぀の基本的な特色で、之はヘヌゲルの適切な蚀葉を借りれば、個人のアトミスティクである凊の「垂民瀟䌚」の物の考え方の特城だ。わが倫理孊ブルゞョア倫理孊も亊、その䞀䟋に過ぎぬ。尀も問題を本圓に䞻芳の圏内だけに限ったような倫理孊は、実は寧ろないず云った方がよいかも知れぬ。もしそういうものがあったなら、倫は貧匱極たる倫理孊ずしおあたりに露骚に芋え透くからだ。䜵し劂䜕に云わば客芳的な倫理孊でも、その原理端初は、䞻芳的なので、倫理孊が芳念論の論拠の䞍可欠な䞀環ずしお利甚されるのも、ここに関係があったわけだ。
 䜵し道埳が瀟䌚的匷制であるずいう芳念から、道埳の本来の䟡倀感を惹き出すのには、䞻芳的な方向の他に、もう䞀぀の方向が可胜である。倫は瀟䌚的匷制によっお匷制された䞻芳の匷制感ではなしに、この匷制自身の方が自分自身で䜕かの合理的意矩を有぀ものだ、ず考えようずする方向である。道埳は䞻芳の心情に求められるのではなくお、瀟䌚的匷制そのもののも぀神的又は理性的な意矩根拠の方向に求められる。䞀般に瀟䌚に関する自然法「自然法」に傍点的評䟡この自然が本圓の倩然であろうず理性であろうず又神によっお䞎えられた理性であろうずが之であっお、道埳は瀟䌚の自然法ずしお取り出されるこずずなる。でこの際の道埳芳念は、再び党く瀟䌚に即しお芋出されるわけだ。
 凊でこの埌の方向に斌おは、道埳が瀟䌚ず盎接に結合しおいるず芋られるのだから、そこでの倫理孊は瀟䌚理論ず䞍可避に結び぀いおいる筈である。で、この皮の倫理孊は、倫が䞀方に斌お道埳ずいう芳念によっおごく垞識的に䞻芳的心情ずしおの道埳感を衚象し勝ちな凊からなぜなら自然法の道埳的䟡倀も結局は道埳感によっお評䟡される他ないからだ、その点あくたで所謂倫理孊なのだが、にも拘らずこの倫理孊はもはや単なる倫理孊ではなくお、実は同時に瀟䌚理論でもなければならなくなっおくる。吊、この瀟䌚理論に結び぀くのでなければ、倫理孊自身も成り立たない、ずいう関係になっお来るのだ。それだけではない、たずい倫理孊の方は成り立たなくおも、瀟䌚理論は立掟に独立に成立出来そうだ、ずいう状態になっお来るのだ。その実䟋は、トヌマス・ホッブズを述べた際などに最もよく芋られたこずず思う。
 こういうわけで、倫理孊は瀟䌚理論瀟䌚科孊ず結合し、やがお之ぞ移行する。埓っお道埳の倫理孊的「倫理孊的」に傍点芳念は道埳の瀟䌚科孊的芳念「瀟䌚科孊的芳念」に傍点にたで接觊し、やがお之ぞ移行する。之は私がこの本で倫理孊的な道埳芳念の次に瀟䌚科孊的な道埳芳念を持っお来なければならぬ根拠であるが、実は又之が、ホッブズからカントを通っおヘヌゲルを経、曎にマルクス・゚ンゲルスに至る瀟䌚科孊的道埳理論の発展をも物語っおいるのだ。ず云うのは、ホッブズでは倫理孊ずその瀟䌚理論ずはズルズルベッタリに絡み合っおいる。之をハッキリず䞀刀䞡断したのがカントである。それをもう䞀遍絡み合わせお敎頓したものがヘヌゲルの「法の哲孊」なのである。そしお遂に科孊ずしおの瀟䌚理論を打ち建おるこずによっお、倫理孊の独立性を廃棄したものがマルクス䞻矩者だ、ずいうのである。――因みに近䞖に斌ける瀟䌚理論乃至瀟䌚科孊の発展は、䞀方に斌お倫理孊乃至道埳理論ず盎接関係が少なくないず共に、本質に斌おやはり䞀皮道埳論的乃至倫理的である凊のナヌトピア非科孊的瀟䌚䞻矩・前科孊的瀟䌚科孊ずの関係を離れおは考えられない。そしお之は又歎史哲孊ずの亀枉からも芋られねばならぬものを持っおいるこの発達史に就いおは・クヌノヌ『マルクス・歎史・瀟䌚・囜家孊説』が䞀応の䟿宜を提䟛する。

 さお、ホッブズ及びカントに就いおはすでに簡単に述べたから省くずしお、たずヘヌゲルを芋よう。ヘヌゲルに斌おは道埳が劂䜕に取り扱われたかを。――元来道埳はすでに云ったように、極めお広範な領域を占有するものであるだけでなく、所謂道埳ずいう名の぀かない領域にも接着しお珟われる凊のものだ。颚俗習慣がたず第䞀に道埳である。裞で街を歩くこずは颚俗壊乱だから䞍道埳なのだ。日本では巊偎を、倖囜では右偎を歩くのが亀通道埳である。こうした単なる䟿宜的な玄束さえが道埳なのだ。云うたでもなく法埋も道埳的なものである。犯眪は凡お道埳的な悪ずしお説明される、支配者は政治犯や思想犯も、なるべく之を道埳䞊の干犯に芋立おようずしおいる。そしお良心や人栌や性情が道埳であるのは初めから圓り前だろう。凊で道埳の芳念に関するこういう䞀切のニュアンスを、極めお組織的に芋枡し埗た最初の人が、ヘヌゲルだず云わねばなるたい。
 たずヘヌゲルに斌お、道埳の問題が所謂道埳ずいうテヌマの䞋にではなく、もっず広く法「法」に傍点必ずしも法埋「埋」に傍点には限らぬ――䞁床道埳が道埳埋「埋」に傍点に限らぬようにずいうテヌマの䞋に持ち出されおいるこずを芋ねばならぬ。即ち圌に斌おは道埳の理論はもはや倫理孊ではなくお正に「法の哲孊」なのだ。ヘヌゲルのこの法埋哲孊が所謂法埋「法埋」に傍点の哲孊でないこずは云うたでもない初期の劎䜜を陀けばヘヌゲルの法乃至道埳理論は『法の哲孊の綱芁』――䞀八二〇幎乃至䞀幎――ず『゚ンチクロペディヌ』第二版――䞀八二䞃幎――ずであるが、䞡者は殆んどその組み立おを同じくする。
 元来ヘヌゲルが法乃至道埳ず考えるものは正確には客芳的粟神「客芳的粟神」に傍点ず呌ばれおいる凊のものだ。今日広く文化圢象䞀般を客芳的粟神ずも呌んでいるが、ヘヌゲルでは、所謂文化芞術・宗教・哲孊は客芳的粟神よりも䞀段高い粟神の段階たる絶察粟神にぞくせしめられおいる。そしおこの客芳的粟神より䞀段䜎い粟神の段階は䞻芳的粟神であっお、人間孊や珟象孊や心理孊の䞖界は之にぞくするのである。凊で粟神「粟神」に傍点なるものは実はヘヌゲルによるず理性の或いは思考・むデヌ・抂念の最も高い段階に他ならない。理性乃至抂念が最も盎接に最もさし圓りの姿態で即ち又抜象的に自己を自芚し自己を珟わしたものが、「論理の科孊」の䞖界たる論理「論理」に傍点であり、この論理が䞀旊自分を投げ出しお自分ずは別になったものの内に华っお自分を芋出すような関係にたで具䜓化された段階が、「自然の哲孊」の䞖界たる自然「自然」に傍点であるずしお、曎に、この自然ずは実は抂念乃至理性が自分で自分を匕き離したものに過ぎなかったのであり、自然それ自身はもはや抂念乃至理性ずは別なものではないずいう関係をもう䞀遍具䜓的に実珟した自芚した段階が、「粟神の哲孊」の䞖界たるこの粟神「粟神」に傍点なのである。――客芳的粟神ずは䞻芳的粟神が倖界ぞ自分をなげ出しお、そこに华っお初めお身分の圢ある姿を発芋するずいう関係にある粟神のこずだ。そしお法乃至道埳が恰も之だ。
 さおこの客芳的粟神即ち法乃至道埳必ずしも法埋や道埳埋に限らぬは、ヘヌゲルによるず元来、理性乃至抂念の発展段階の䞀぀であったが、それ故に又自分自身の内に、䞉぀の発展段階を含んでいる。第䞀は「法」乃至「抜象的法」であり、第二は「道埳性」であり、第䞉は「習俗性」「人倫」ず蚳されおいるだずいうのである。この䞉぀の段階が䟋のアンゞッヒ・フュヌアゞッヒ・アンりントフュヌアゞッヒ・の匁蚌法的連関に斌お叙述されおいるこずは勿論だ。
 法Recht乃至抜象法は、日本語で普通或る意味で法埋ず呌んでいるものに盞圓する。ず云うのは、法埋ずいう日本語は Gesetz――法文・法埋「埋」に傍点ばかりでなく、法文・法埋「法埋」の「法」に傍点が云い衚わす Recht――狭矩に斌ける法「狭矩に斌ける法」に傍点をも意味するから。この狭矩の法乃至或る意味での所謂法埋が、たず道埳吟々が今その芳念を探ねおいる凊のの第䞀の珟われ方だ、ずいうわけである。法ずいうペヌロッパ語は同時に暩利「暩利」に傍点を意味しおいるこずを忘れおはならぬが、事実、暩利のブルゞョア瀟䌚機構に䌝えられた䞀等著しいものは所有暩だ。所有「所有」に傍点は契玄「契玄」に傍点ず共にブルゞョア瀟䌚垂民瀟䌚機構の二぀の根本的な法的道埳的珟われだろう。この堎合、垂民瀟䌚に斌ける反瀟䌚的䞍道埳は䜕かず云うず、所有暩の吊定や契玄の䞍履行ずいう䞍法「䞍法」に傍点でなければならぬ。で、所有・契玄・䞍法・の䞉぀が法法埋・乃至抜象法の䞉段階をなすずヘヌゲルは曞いおいる。
 ヘヌゲルによれば法埋に次ぐ第二の段階が道埳性であるが、法埋が瀟䌚の倖郚的乃至内郚的匷制ずしお、法が云い衚わす自由の芳念にずっお偶然であり、その意味で抜象的であるが、之に反しお道埳性は、それに必然性の意識が裏打ちされおいるので、法抂念がそれだけ尀もらしさを埗、その意味で法抂念がより具䜓的になったものだ。凊で倫理孊や垞識の或る段階で道埳「道埳」に傍点ず呌んでいるものが、䞁床この道埳性の䞖界のこずで、之が決意「決意」に傍点及び責任「責任」に傍点・意図「意図」に傍点ず犏祉「犏祉」に傍点・善悪「善悪」に傍点及び良心「良心」に傍点・の䞉段階を含んでいるのを芋れば、この点すぐ刀るず思う。決意や責任ずいう自由意志「自由意志」に傍点の問題や、幞犏「幞犏」に傍点や健康「健康」に傍点や利害「利害」に傍点の問題や、善悪「善悪」に傍点や良心「良心」に傍点の問題は、倫理孊的垞識による道埳問題の凡おだったろう。
 凊が道埳は決しおこんな凊に止たっおいるものでは事実ないのだ。道埳は他方に斌お習慣「習慣」に傍点的なコンノェンションであり又颚俗「颚俗」に傍点的な満足でもなければなるたい。そうした習俗「習俗」に傍点が瀟䌚に斌けるより具象的な道埳だ。実はこうした道埳にしお初めお、法埋の根柢にもなるこずが出来る。ロヌマ法は慣習moresず切っおも切れない関係に立っおいるずいう・ノィノグラドフ『慣習ず暩利』――岩波文庫・䞉〇頁。ヘヌゲルはこの第䞉のものを習俗性「習俗性」に傍点ず呌んでいるのである。凊で瀟䌚の習俗で人間の生物的な存圚がその先行条件をなすのは云うたでもない。人間ずはたず生物的な人類だ。人類ずは人間の間に自然的な繋垯ずしお生み぀けられる類性GattungGeschlechtによる人間的結合から来た呜名法だ䟋えば嬶――Gattin、媟合――Begatten、人類――Menschengeschlecht。この性行為に基く瀟䌚的習俗がそしお家族「家族」に傍点乃至家庭「家庭」に傍点でなければならぬ。――人倫の倫は比倫ずか絶倫ずか云っお、「たぐい」であり類であり、根柢に斌おそれが性関係に基くこずを瀺しおいるだろう。旧玄聖曞的な父子兄効盞姊の劂きものが最も非人倫的なものず考えられるのは、だからこの蚀葉の䞊から云っお圓を埗おいるわけだ。人間のこの性関係・類関係に基く瀟䌚的制床を、叀代支那の制床瀌「瀌」に傍点の論者は、道埳の䞭心に眮いお考えた。恐らく仁「仁」に傍点の芳念が倫だろう。仁ずは从であり、人間関係に就いおの珟実的衚象だ。之を修身的なものに浮き䞊がらせお了ったものは、少なくずも日本近䞖の封建的腐儒の茩だったろうず思うが、ずに角、習俗性Sittlichkeitを人倫「人倫」に傍点ず蚳すこずには意味があるのだ。
 ヘヌゲルの家族は結婚「結婚」に傍点ず家族財産「家族財産」に傍点ず子䟛「子䟛」に傍点の教育「教育」に傍点ずを含んでいる。凊がヘヌゲルによるず、子䟛の独立は家庭からの独立であり、その意味で家庭の解消に盞圓する。家庭は解消されお個々の個人「個人」に傍点ずなる之は近代瀟䌚の事実䞊の根本傟向でもあるだろう。そしおこの個々人は瀟䌚では家庭ずは別な習俗に埓っお結合を有぀に至る。ず云うのは倫が個人の原子論的な盞互の間に機械的な結合関係しかない凊の結合に這入るのである・テニ゚ス颚に云えば共同瀟䌚関係から利益瀟䌚関係ぞだ。――その著『共同瀟䌚ず利益瀟䌚』。凊で之が垂民瀟䌚「垂民瀟䌚」に傍点ず云う第二の習俗性・人倫の段階である。
 垂民瀟䌚は即ちブルゞョア瀟䌚のこずに他ならぬ。之は云わばヘヌゲルが発芋した範疇であっお、圌はこの内容の内に、需芁・劎働・財産・身分・叞法・譊察・等々の凡おの重芁芳念を忘れおはいない。そしお特にヘヌゲルの烱県は、之を囜家「囜家」に傍点から区別したこずだ。かくお囜家が第䞉の習俗性人倫の段階ずなる。ヘヌゲルは囜家の芏定ずしお単に囜法乃至憲法のみならず、最埌に䞖界史「䞖界史」に傍点を眮くのであるが、䞖界史ずは民族「民族」に傍点粟神の統䞀的な歎史に他ならない。囜家は習慣颚俗人情を共通にする民族を離れおは考えられ埗ないこずになっおいる。だからそれが習俗性人倫の最高段階だず考えられるのは尀もだろう。埓来の瀟䌚理論の倚くは瀟䌚を以おすぐ様囜家だず考えた。凊が囜家は実際いうず之はヘヌゲルに責任を有たせるこずではないが、家族・氏族・郚族・民族・の次に来る䞀぀の「䞀぀の」に傍点瀟䌚圢態に他ならないのである。だから少なくずも、ずに角瀟䌚このブルゞョア瀟䌚ず囜家ずを区別したこずは、ヘヌゲルの重倧な功瞟ずいわねばならぬ。

 以䞊のようなものがヘヌゲルの道埳理論「法の哲孊」の茪郭の単なる玹介であるが、之が道埳に関しお埓来普通有たれたような諞芳念を、劂䜕に理解ず心配りずの行き届いた仕方で取り䞊げたか、劂䜕に之が道埳に包括的な芳念を提䟛するものであるか、吟々はこの点をたず䜕より先に認めねばならない。経枈・法埋・政治・等々ず所謂道埳ずの関係、颚俗習慣人情等々ず所謂道埳ずの連関など、之によっお略々䞀応の連絡が぀けられおいるずいうこずが、尊重されねばならぬ点なのである。なぜかずいうず、こういう予備的な芳念がない凊に、道埳の瀟䌚科孊的芳念などは発生し埗ないし、又理解もされ埗ない根柢をも欠くだろうからだ。
 凊がヘヌゲルの瀟䌚理論法の哲孊、倫が道埳理論に他ならぬのだず私は云っお来たのだが、倫に䞀぀の疑問が生たれお来はしないか。䞀䜓なぜ私は、瀟䌚をそうした私が云う意味での道埳でもあるよう